ぜんぶ嘘になる
4210 words(19min read)
初鳥×セオドア『ぜんぶ嘘になる』再録 短編が4つあるうちの4つめ。
2024/11/2 17:00
⚠️DLC前に書いたものなので現在わかっている公式の設定と異なる部分がある場合があります。ご承知おきください。
早朝、少しひやりとした空気をかき混ぜながら異国の香を思わせる甘い煙がラウンジに広がってゆく。空間の静穏はそれで揺らいだ。初鳥は脳をもやで覆うようなそのにおいを嗅いだとたん、この場を出ようと考えたものの、何かわざとらしく思われても癇に障るのでそのままでいることにした。それでも憂鬱と呼ぶにはいささか明るい朝だった。
初鳥創はタバコというものをあまり好ましく思っていない。
ヒトの三大欲求というものをおおよそ持ち合わせてはいないけれども、自分たちの特殊性があくまで細胞という有機物に依存している以上、初鳥創および隣にいるセオドア・リドルにとって呼吸は依然として重要なものだと初鳥は認識している。それは彼、セオドア・リドルもわかっているはずなのにと初鳥はいつも不可解に思う。彼は日に何本もタバコを吸う。
革が紙箱と擦れる音。かち、という小さな音。火がタバコの先を焦がす音。する、と灰皿を引き寄せる音。
そうしたお決まりの動作の中で黒子のようにするりと初鳥の横に座ったセオドアは、目の前のローテーブルに新聞を広げはじめた。いちおう資産家の肩書きを持つ男は、ときおり手帳に何事かを書き込みつつ黒手袋に覆われた指で器用に薄灰の紙をめくっていく。初鳥はそれを横目に、手にしていたマグカップで小さなマシュマロの浮かぶココアを黙って飲んだ。静かな朝だった。曇り空の窓から差し込む白い光がぼんやりとしていた。ちょうど世界銃で経済情勢が不安定な時期で、「うわあ、」や「ああ…」などとセオドアは声をたびたび嘆息を漏らした。
「独り言が大きい」初鳥はぼそりとつぶやいた。
「別にいいだろ……最近はどこも大変なんだから。初鳥知らない?」
「年寄りくさい」
「はいはい」
投げやりに会話を打ち切られた初鳥は憮然とした表情を残しながらもどこか納得のいかない心地がした。それがなぜなのか初鳥自身よくわからないまま、再び静けさがラウンジを満たした。セオドアのタバコ[ブルグマンシア]が時おりその身を揺すられて音もなく灰を落としていった。
「…あぁ……死にたい…………」
急に首が絞まったような声が聞こえたのでのろのろと初鳥が顔を向けると、のけぞるようにセオドアが後ろに身体を倒すところだった。椅子の背もたれを細長いピアスが軽い音を立てて叩いた。開かれていたページの隅には訃報欄が見えた。
「誰か、亡くなったの」と初鳥は尋ねた。
「うーん……まあちょっと…………」
天を向いたセオドアの唇から短い人名が漏れた。初鳥も二、三度会ったことのある人だった。
「そう」初鳥は目を伏せた。「ならば私のところにも、便りが届いているかもしれない」
「あー、かもね」
足の反動で身を起こしたセオドアは残りの数枚に軽く目を通していた。先ほどの落胆がまるでなかったような様子だと初鳥は思った。けれどそう珍しいことではない。セオドアはよく萎えて、よく立ち直る。初鳥は静かに口を開いた。
「けれど”死にたい”なんて、口癖にしても言ってはいけない時があるだろう」
「あちゃあ、初鳥からマナーを説かれる日がくるとはね」セオドアはおどけて言った。「でも今、ここに初鳥しかいないしさ」
「私しかいなかったら、なんなんだ」
「それはもう……」セオドアはゆらりと首を傾げた。「いや、やっぱりいいや」
初鳥はもう、それ以上の追及は諦めて自分の横を漂う煙を目で追った。彼の言動に過剰反応するのは馬鹿らしいことなのだ。それなのにどうして毎度のようにむきになってしまうのか、初鳥は自分が不思議でならなかった。
「これ、初鳥読む?」
「……」
何も返ってこないことをわかっていたようにバサリと新聞をたたみはじめたセオドアに、初鳥は咄嗟に「いや、やっぱり読む」と口を挟んだ。セオドアは「なんだよ」と初鳥を見て少しだけ口の端を歪めた。その顔は常にどこか読めない表情をのせていたヴェールが一枚はがれたように見えて、初鳥はわずかにどきりとした。
「それじゃ、俺はいろいろ準備しなきゃなあ」 のんびりとした口調でセオドアは灰皿を持って立ち上がり、来た方へと立ち去っていった。初鳥の隣には開いたままの新聞紙が残された。初鳥が深く息を吸い込むと、煙が残り香と共にいつまでも胸の底に溜まっているようだった。
そのせいか、数日後のその人の葬儀で初鳥はふだん言わないような問いをセオドアに口走った。
「人間はどうして死ぬのだろう」
ひとつの亡骸の上をたくさんの切り花が埋め尽くし、花々の周りでたくさんの人々が涙に暮れているのを、初鳥はセオドアとふたり、少し離れたところで見ていた。青空の下、たったひとつの命が失われただけで。初鳥はそれが悲しいことだと感じるいっぽうで、どことなく不服のような感情を持つのだった。
「なに、急に」セオドアは小さく、わずかに険のある表情で訊き返した。
「あの人だって誰だって、死ななければこれほどの悲しみは生まれないだろう。花々だって摘まれずに済んだかもしれないし、人々も笑っていられただろう。 魂が不滅なものであるならば、私のような存在を待たずとも肉体が不死でいる必要は、その価値はなんであるのだろう。 いやむしろ、最初から生まれなければ、悲しみも生まれなかったのだろうか」
淡々と口から漏れ出でる初鳥の思考に、セオドアはタバコを咥えたまま呆れたように鼻を鳴らした。
その時の初鳥にはきわめて自然に浮かんだ疑問たちだった。死はいたるところにあったけれども、どれも遠くに感じるものだった。
「あるいは、みな死んでしまえるから内に溜まった悲しみを、なくすことができるのかも…………」
初鳥がそうつぶやくと、セオドアはゆっくりとタバコから口を離した。依然としてセオドアは黙っていた。その顔は遠く、地平線のほうを向いていた。初鳥はすがるようにセオドアを見、そのときはじめてセオドアの服が普段とほとんど変わらないことに気づいた。彼が纏う黒は喪服の黒でもあったのだ、と思った。初鳥はなぜだかたまらなくなって口を開いた。
「ねえセオドア。いつか、死ぬのだよね。私もセオドアも。どれだけ長くかかったとしても、どれほど無惨で凄絶な方法であったとしても、最後には死ねるのだよね」
セオドアは一拍、息を腹の底へ押し込めた。自分がその言葉に対して身じろぎをしていないか、いくらか慎重になった。俺が、彼らよりも自分に近い存在だとでも思っているのだろうか。よりによってそんな問いで。
俺を縋るような目で見て、なんになるのだろう。セオドアが初鳥が哀れに感じた。呼吸を緩め、澱んだ空気を吐き出した。
そうしてはじめてセオドアは初鳥のほうを向き、何気ない口ぶりで「そうだよ」と言った。
初鳥は予想していなかったタイミングでセオドアと目が合ったので、思わずぱっと顔をそむけた。セオドアのわずかに細めた視線がどこか剣呑に見え、まごついた。
セオドアはにっこりと、初鳥に向けて笑いかけた。
「だっていつも俺、言ってるだろ。”死にたい”って」
「そ……」
言われてみれば、確かにそうだった。初鳥はほっと安堵した。私もセオドアも、死ねるのだ。初鳥は掌(てのひら)を何度も握っては開いた。
セオドア、私は死ねることが、嬉しいよ。
死ねるということが、いま、嬉しく感じられている。だから、そう、たった一言。
「うん。だからね?こないだのお返しとまではいかないけど、この話題はちょーっとTPO的にどうかな?なんて思ったり……えっ!?」
いつもの調子を取り戻したセオドアであったが、視界の端でうずくまる初鳥を認めると動揺の声を漏らした。黒ずくめの服装は長髪によってすっぽり覆われている。TPOを説いた途端にこの有様である。いくらか声を掛けてみてもぴくりとも動かず、いよいよ体を掴んで揺さぶってやろうかという頃合いだった。
「セオドア……」
弱々しい声が漏れた。初鳥が喉から絞り出したものだった。セオドアは動きを止めた。しばし無表情で初鳥の後頭部を見つめた。色素の薄い髪は陽光を反射してきらきらとよく光っていた。それから脚をまっすぐに伸ばし、隣で二本目のタバコを吸い始めた。すこし遠くのほうでは黒い集まりが少しずつほぐれていき、真新しい墓石があらわになっていった。白く磨き上げられたそれもまたピカピカとセオドアの目を刺した。眩しかった。なにもかもがセオドアには眩しく見えた。墓地を去る人々がこちらを異様なまなざしで見るよりもずっと、自分が異様なものなのだと思い知っていた。いや、ふたり含めての視線か、とセオドアはふとどこか冷静な心で思った。足は動かさなかった。同情とみなされるのを疎む情動はもう自分には残っていないのだから。
手元から細く昇る煙は天に届く前に霧散して消えていった。
机の上の新聞紙を手に取ったものの、うっかりして皺を作ってしまった。
開かれたページの隅に小さく、とある資産家が飛行機事故で亡くなったという記事があった。
ほんとうだろうか、と心の無防備な部分が問いをあげた。死んだ?それは本当に?
いいや、死んだのだ。改めて自分に言い聞かせた。死んだものとして、私はこれから生きていく。それが、私が彼にできる一番のことだ。
端的に言えば、セオドアは私にひとつの嘘をついていた。その嘘のせいで、今の私は不安に苛まれている。果たして彼はほんとうに死んだのか、と。
けれど、もはや些細なことだ。問題にはならなかった。
”いつかそうなれたらいいね。”
”死にたい”と零すセオドアに、私はそんな言葉を返したかった。世俗の都合で永[なが]くこの世に縛りつけられている彼にせめてなぐさめの言葉をと、いつも思っていた。けれども口にできたことは結局ただの一度もなかった。
私は彼の願いを肯定することすら、できはしなかった。
導きの星にならんとする私の意志に、紙魚(しみ)のような後悔が残っていた。セオドアが私に言わなかったこと。あの日、青空の下で私についた嘘を。
私は彼の嘘がどうかほんとうになってほしいと願った。愚かしくも私自身が彼の全てを踏みにじろうとも。贖罪に遠く及ばない自己陶酔の手段に過ぎないとしても。この気持ちだけは嘘ではなかったのだと、覚えていたい。私はその後悔と祈りとを誰も知らない私の十字架として背負おうと、決めた。
懐に秘めた、小さなロザリオのように。
了