終末のほとりにて
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「Eルート災厄さん×初鳥」
2020/3/15 00:00
道なりに登ってきた山中の車道を外れて私は雑木林の中に入った。日射しが厚い雲に覆われて空が急激に色を失いつつあった。どちらに向かえばいいのかは最初からはっきりとしていて、歩みを進めるうちに見知った空気の感触が鼻や肌を感じて知覚できるようになった。
蔓に覆われたままがらんと口を開けた鉄の門を抜けて私が目にした建造物は、先の騒動の時点でそうだったのか、既に巨大な廃墟と化していた。私は少し残念だった。さあ壊してやろうと意気込んでいたのに、ここでやれそうなことはほとんどなかった。
しかし、ここに来た目的は他にもあった。さて、と私は声を張り上げた。
「まだ生きているのだろう?初鳥創」
一般的な現代社会なら虚空に話しかける者は変人狂人の類だが、私の行動を咎める者はこの場には誰もいない。なお現代社会に対しても、ここに来る途中で既に少しヒビを入れて"壊して"きた。機先を制する、というやつだ。
『…………』
「残念ながら、いるということはこちらでも認識できている。どのような姿なのか、まではわからないが」
かすかな気配の揺らぎを感じ取れたため、私は語りをつづけた。私が声を向けるのは瓦礫のはるか下。底に眠っているはずの白薔薇の棺である。
『……君は…………』
しばらくすると、ひどく微弱な声を拾うことができた。向こうに驚きのような感情は感じられない。どちらかといえば、疲弊しきっているのに用向きを頼まれたかのような、醒めた、事務的な口調だった。
『……………何が目的でこちらに呼び掛けている』
私は無人の広場でひとり腕を広げた。
「もちろん、話がしてみたかったのさ。そのために急いでここに駆けつけたのですよ?
とはいえ、本当にいてくれるかどうか、望みはほとんど持っていなかったのだけれど――」
私はひときわうず高くそびえる聖堂の残骸の上にヒョイと登った。それから大仰な身振りをつけ、積まれた瓦礫の上を歩く。ときおり足を振り上げる途中で石ころを軽く蹴飛ばす。石ころは宙に浮き、それからころころと転げ落ちて、岩の隙間に消える。それだけでなぜか奇妙に愉しい。
だって、あれから半年も経つのだ。彼の人がまだ生存していて、しかもこちらとまともな意思疎通ができる状態というだけで奇跡に奇跡を重ねたような状況だ。
「あなたのことを、誰か"回収"には来なかったのですか?それとも回収されそびれた残滓のようなものがあなたなのか?」
『…………』
「まあ、いいか。裏で何がどう動いていようと私のあずかり知るところではないから」
『………………』
初鳥創の沈黙は重い。どうにも、軽快に相槌を打てる状態ではないようだ。私は気を取り直して話を進めた。インタビュアというのはえてして無神経でないと務まらない。
「それで、初鳥創。今はどういったお気持ちですか?」
『…………今、か。 ……………。 今は……穏やかだよ。それと、少しだけ、安心している』
「安心。それはまた、どうして。 あなたの愛した世界とそこに在る万物とを、私はこれから滅ぼしていくつもりだけれど」
比較的平らな足場にたどり着いたので、くるりとその場で一回転してみる。廻る視界は、一面の黒い森が私を囲んでいるのを示す。暗き森。眞(まこと)の路(みち)を棄てし時……。よく言ったものだなあ、と思う。初鳥はまた数十拍置いて私の問いに答える。
『……万物は世界に在る以上、永遠にその姿が保たれるということはないだろう。 ゆえにそれが崩れ落ちる、滅びる様も私には愛すべき対象だ』
「全て神の愛、であるから?」
『ああ。』
私の喉の奥からク、と息が漏れる。
「確かに、まったく、良い思想だ。 なにせ、どちらに物事が転んでも精神的な保険になるし、何を為そうと己を責めずに済む」
『……………………』
「失敬。個人の信条に口を挟みすぎた」
慇懃に瓦礫の舞台で頭を下げた。それから長い沈黙があった。その間、瓦礫の高台からぼんやりとあたりを眺めた。森から鳥や虫の鳴き声は一つも聞こえず、ただざあざあという風が曇天の空から吹きつけてくるのみであった。木々の葉擦れが十二分に私の耳を洗った後、ようやく、初鳥の声なき声が紡がれた。
『………………いいさ。じきに、全てが終わるのだ。 君が、私の代わりに終わらせるから。』
「あなたの代わりに?」
私は訊き返す。
飽きるほどなぞった、私という存在が生まれたときにあまねく細胞に浸み込んだ感情のことを再度思い返してみる。
阿藤春樹の憎悪、慟哭、そして絶望とを。
私はこれらの感情ゆえに動いている。しかし、これらの感情は決して"私のものではない"。
ともあれ、強いて言えば阿藤春樹の代わりに世界を壊そうとしてはいるのだが。
初鳥創の言葉は続く。
『そう。 ……私は、私自身がやがて"災厄"になってしまうものだと、どこかで恐れ、そして諦めていた。 けれど今では、その可能性は取り除かれたから』
「そうなのかな。まあ、今のあなたではもう何もできないでしょうからね」 少し皮肉を入れると、それまでで最もはっきりと落ち着いた初鳥創の返答が私の内に響いた。
『いいや。 君が私の代わりに"災厄"の因子を受け継いだのだから。』
「……」
『安心している、というのはそういった意味合いだ。 私にはもう、何も為すことはないから』
私は初鳥創の言っていることがよくわからなかった。しかし、何か胸を突かれる思いがした。いつの間にか風がなまぬるい湿り気を帯びていて、黒灰色になった空からは今にも雨が降り出しそうだった。
「それでは、今のあなたはただの初鳥創?」
『……どうかな。よくわからない。 ………………』
初鳥創はまた黙りこくった。地面の下の声は既に生返事だ。会話もそろそろ限界かもしれない。
私は黒い森を、そしてその向こうの世界を睥睨した。私がこれから壊す世界を。
そして問うた。
「ねえ、初鳥創。あなたは、人間を憎んでいた?」
初鳥創は答えた。
『いいや。 私は全てを愛していたよ。』
「………………そう。」
目を閉じて、その言葉を反芻する。
すると、突然意識がすっと遠ざかるような感覚が私を襲った。
否、正確には私の内を満たす、飽くことなく見つめ続けたどろどろとした感情の渦が。それが、私の意識からどんどん遠ざかり、小さくなっていくのだ。
怒りが、憎しみが、悲しみが、それらすべてが等質になり、身を委ねられぬ距離へと離れていくこの感覚は、私が"もとより知っているもの"だった。
「そうか。 これが、私たちの愛なんだ」 私は目を開けた。心の隅にわずかに残っていた迷いが消し飛ばされた。
今ようやく、この感情の"使い方"がわかった気がする。
忘れたことさえ忘れていたものが手元に戻ってくると、安心するような手に余るような気持ちだった。けれどそれも、じきに慣れる。
「ありがとう。初鳥創。おかげですっきりした」
返事はない。もう私の気は済んだから、別段困ることはなかった。旧研究棟――かつての私の故郷でもある――の残骸から飛び降りると、先ほどまではなかった白薔薇の花があたり一面に咲いているのを認めた。私は少し笑い、すぐそばの壁の跡にもたれかかる。ほどなくして、雨粒が私の頬を濡らしはじめた。
さようなら、私という枝を分けた葡萄の木。さようなら、阿藤春樹と、彼の得た感情たち。
あなたたちの代わりに、私はもうすぐ、全てをゆるしにいくよ。
了