Hasta La Vista | 銀河鉄道至高天行(試験運転版)
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銀河鉄道至高天行(試験運転版)

31955 words(145min read)

 宇津木藍桐が目覚めると、そこは至高天を目指すという奇妙な列車の中だった――。『神曲』天国篇×『銀河鉄道の夜』×むてらんって感じの話です  未完のうえにところどころ変な箇所があるかもです申し訳ありません

2024/11/2 18:51


〇 一九一二年四月十六日 前編

 その夜、原田无諦(むてい)と宇津木藍桐(らんぎり)は列車でイタリア半島を北上していた。風のゆるやかな春の夜だった。

 本国の援助を受け医学留学生として華々しく日本から出立した彼らではあったが、二等車の硬い座席に潮風に晒され続けた身体を預けている姿は貧乏な若い旅行者とほとんど違いはなかった。窓から射すほの白い月明かりは、白く褪せた亜麻布のカーテンや、潮風にごわつくふたりの髪や、飴色に褪せたトランクが単調なリズムにあわせて揺れるのを、薄い雲の隙間から差し込んでは気まぐれに照らしていた。

 宇津木藍桐は普段にもまして開いているのか閉じているのか判別し難い眼で窓の外をうとうと眺めていた。彼のお気に入りであるこげ茶色のスーツもくたびれて見えた。彼が前から憧れていたイタリアの地をろくに観光もできず通過してしまうことに散々漏らしていた不平不満も、夜が更けたところでようやく静まったところだった。

 藍桐の向かいに座る原田无諦は万年筆(ごくごく普通のものだ)を頬に添えてじっと思案していた。が、やがてもう片方の手で持っていた黒革の手帳をぱたんと閉じた。そしてこう言った。

「これはボツだ」

「えっ!じゃあそれ読ませて!」

 短い一言が耳に入ったとたん、藍桐は霞(かすみ)と消えかけていた意識を一瞬で呼び覚まし、傾いていた上半身をがばりと起こした。

 驚く様子も見せずに无諦はため息をつく。

「読ませられる代物じゃないからボツにするのだと何度も言っているだろう」

「お願い!船旅中だって辛抱してきたじゃないか!」

 やんわりと受け流そうとしていた无諦の肩はすがるような藍桐の一言でぎくりと強張り、若葉色の羽織がほんの少し下にずり落ちた。

 約一ヶ月前、ふたりを乗せて横浜を出た客船は、アジアの港をいくつも中継しながら西へと向かい2日前にブリンディジの街へと到着していた。

 イタリア半島の形を片方だけのブーツに見立てた際、細長いかかとの中ほどあたりに位置しているのがブリンディジ、アドリア海に面した港湾都市である。

 古代ローマの偉大な詩人ウェルギリウスがその一生を終えたことでも知られるその古都に船が到着するやいなや、(藍桐に言わせれば本国からの有無を言わさぬ指示においてしかたなく)さっさと鉄道に乗り換えた彼らは、ブーツを這い登る蟻のごとくに半島を北上し、留学先である中欧の小国エアツェルングへ向かっていた。  ひと月を費やした船旅の間、无諦はもっぱら手帳を開いては、趣味の書き物の構想に耽っていた。

 が、まだ考えがまとまっていないから、の一点張りで、織り出した文章の切れ端さえも藍桐の目に入るのを固辞してきたのだった。

「僕はなんにもすることがない船の上でずーっと新聞ばっかり読んで我慢してきたじゃないか。最後の数日なんかはポラリス号処女航海の見出しばっかりでさ、それを見て船のくせに自分で道しるべを名乗るなんてずいぶんだよねって僕が言ったら、ああ確かに今考えてる話にも使えそうだ、なんて思わせぶりな発言だけで終わって僕はどれだけやきもきしたか、」

「わかった。わかったよ、藍桐」

 无諦は先ほどまで筆を入れていた手帳の1ページを破り取った。しなやかな厚みを保つ上質紙は、裏側を食い入るように見つめる藍桐にも无諦が紡いだインクの跡を追うことはできなかった。无諦は紙片を前にして暫し目を閉じた。

 そして、十分に黙考した後にその紙片を折りたたみ、自らの懐にしまった。

「えーーーー!!!!!」

 停車しようとする汽車の駆動音が藍桐の大音声(だいおんじょう)をギリギリ掻き消した。

 夜行ではあるが、幸いなことに乗り込んでいる客がまばらであった。窓の外では小さな灯りと荷車がいくつも行き交い、石炭と水の補給が始まっていた。

 藍桐の瞬発力は声のみでは終わらず、小柄な体躯が无諦の眼前にすかさず詰め寄る。

「自信がないの!? それなら大丈夫!! 无諦が書くものはどれも最高じゃないか!!!」

「藍桐、静かに」

 人差し指が一本。

 それで口を塞がれた藍桐は肩を窄めて詫び、それでもしかたなく作家の肩を掴んで精一杯のひそひそ声で激励の意を表した。

「この間の『想像郷』も僕はすっごく好きだしっ、ペンネエムでも使ってどこかで発表するべきだって、ずっと思ってるよっっ」

 実習の合間に手慰みで書いた短い小説もどきを引き合いに出され、无諦は気恥ずかしさやら頭が痛くなるやらで目を閉じてこめかみに指を当てた。

 无諦にとって書き物は単に酔狂でやっていることのつもりだった。多少物覚えが良かったことから周囲にほめそやされ、気づけば医学に専念せねばならなくなった身の上の息苦しさから少しでも逃れたくてはじめた戯れ事がたまたまひとりの学友の目に止まった。それが藍桐との関係のはじまりだった。

 今ではこのように留学先とその道中までも共にする間柄になっているが、単に気分のまま書き捨てていたものを本業そっちのけの勢いで熱中されているので若干扱いに困っていた。向こうはひたすらこちらを褒め倒すのみであるため邪険にする気も湧いてこない。そのぶんなおさら「たち」が悪かった。

 くわえて、そんな親友の甘い言葉に舞い上がって自分の文才に優越の錯覚を持てるほど、无諦は無邪気にも無知にもなりきれなかった。

「あれは……単に西欧の空想科学小説の模倣にすぎない。興味があったから自分で少し書いてみただけだ。神が想像をやめた途端に世界が終わるだなんてアイデアも平々凡々。たまたま手に取った君の好みに少しばかりは合ったのだから僥倖、という程度の話だ」

「うーん。平凡と言われても僕にはぴんとこないけど……」

 藍桐は難しそうに腕を組む。

「でも僕があの話を読んで一番わくわくしたのはね、无諦。君が誰よりも人の想像力を信じているんじゃないかって、感じたことだよ」

「……? どういうことだ?」

 无諦は首をかしげた。

 神が世界の創造をやめたとたん、すべてが闇に包まれ文字通り"終わってしまう"。ただそれだけの物語。

 投げっぱなしの結末であるがゆえに作者の想像力の底が知れる残念な話に他ならないはずだが。

 藍桐は両の手で拳を作って熱心に語る。

「だってそうでしょう? たとえ神様が想像をやめてしまって、そこで世界が終わってしまうというのなら。作家という人間は、同じことが作中世界で再現できる。現に君は、そうしている。  君こそが、あの世界における神なのだから、逆説的に作家が書きさえすれば、世界は終わらずに続いていく。  それってつまり、君は神様と同じ力を、創造の力を人間も持てると考えているってことになるでしょ?」

 藍桐の話は、旅の疲れで凝り固まった无諦の頭にはいまいち飲み込めないものだった。なんとなく呑み込めるのはいつもの如く自分の小説が分不相応な褒め方をされているということだけだった。

 底なしの楽観思考(ポジティブ)と言うべきか、あるいはとびきりの屁理屈と言うべきか。无諦は素直に感心した。

「む……。なんというか非常に藍桐らしい見方で、ありがたいとは思うが。だが作家が神だなんていうのはいささか大げさすぎだ」

「そうかなあ」

「いや、そうなんだ。たとえばそうだな……眠っているとき見る夢がその人物の精神世界を反映しているという論考を著したオーストリアの医者の話は以前しただろう?」

「えーと、確かフロイトだっけ?」

「ああ。彼の発想を持ち込むのなら、夢もある意味その人物が夜毎(よごと)ひとつの世界を創造し、目覚めと共に消しているのさ。」

「えええ?うーん……、いやいやしかし……」

 突然飛躍したような話題に、藍桐は困惑しながらも楽しげに議論に乗る。

「ううん、それはやっぱり違うよ无諦。夢は見ている本人でさえ、どんな筋書きになるのか予測も制御もできない。反面,、作家であればすべてを自分の手のひらの上に置けるじゃないか!」

「いや、小説は実際書き始めたらプロットの筋書きからどんどん脱線して最終的に別物になるぞ。これは本当の話だ」

「据わった目で言われても困るよ!」

 私情を挟みすぎた、と无諦は手をひらひらと振った。

「ではそうだな、演劇で例えてみようか。それならば作家というのは裏方にあたるものだろう?」

 无諦の話題転換を受け、藍桐が小さく指を鳴らした。

「その例えはいいね!演出家であり脚本家であり、舞台監督もやっちゃったり!」

「兼役が多すぎるだろう!そういう意味ではなくて、」

「作家はそれぐらいすごいってこと!ああでも、舞台だったら、无諦が役者をやっているところも見てみたいかも!」

「…………」

 ああ、結局この高望みだ。

 思わず无諦が閉口してしまうのは不機嫌になったからではなく照れと口論の無為さに依るものだ。ふだんの藍桐はこれを大声でまくしたてるのだから、寡黙な彼にはとても太刀打ちできるものではなかった。周囲が日本語を解さないだけいくらか照れも減るのかもしれない、と无諦は異国で過ごすこれからの日々を想い、目前の早口を断ち切るべく咳払いをした。

「とりあえず、私にそういった肩書は不適当だ。書けていないのが実際のところであるのだし」

「そっか」

 沈黙が訪れた。

 ふいに静かになった藍桐は、それでもぽつりと言い足した。

「でも……書き続けてほしいな」

 いつも疲れ知らずに張っている背筋がわずかに丸まっているのを見て、无諦は自嘲まじりの軽口を静かに閉ざした。

「作家になってほしいとまでは、僕からはとても言えないけどさ。君はこれからエアツェルングで多くを学んで、必ず立派な医者になるだろう。それは簡単な道のりじゃないと思う。だけど君には物語を創ることも、やめないでほしいんだ」

 一拍置いた後、藍桐はからりとしたいつもの笑顔に戻った。

「もちろん僕のエゴなんだけどね」

「……ほんとうに、無茶を言うな」

 无諦はため息をついたが、先のような気だるさはもう含まれていなかった。臙脂(えんじ)の瞳が車窓の外を見る。暗闇の中に、せわしなく動く荷車の影と、作業員のかざす合図灯がいくつも揺れている。

 闇の中を旅する列車のために灯るその光が、今の无諦にはまぶしくて仕方がなかった。

 光を浴びながら、破り取った手帳のページを再び取り出した。本当にどうということのない、つまらない話。无諦は口を開く。

「だが……物書きにかまけている暇が無いのはそれは君も同じだろう?いずれ万人を癒やす薬を作る君には私の物語など読んでいる暇はないんじゃないか」

「! もう、やめてよ!」

 ある時聞いた話でやり返したところ、藍桐の細めた目元がにわかに赤くなった。无諦はそれを見て少し笑う。

 西洋における最先端の薬学だけではなく、藍桐はそのルーツに根ざす学問、錬金術にも強い興味を抱いていた。

 当代では既に旧い時代の迷信とみなされているそれを、よもや未来の薬剤師が熱心に研究していると知られたならば周囲にどんな目で見られるか知れない……。藍桐はそう言って、いつかの夜、无諦だけにそのことをこっそりと打ち明けたのだった。二人は互いに秘密の願いを共有する仲だった。

 无諦の決意は固まった。酔狂に浸っているうち自分はいつのまに絆されてしまったのだろう。物語という織物を紡ぐ糸に。あるいはこの友人に。

「朝まで待ってくれ。もう一度だけ詰め直す」

「! ほんと!?」

 わーーーい、と叫びだす寸前の口を无諦は再び塞ぐ。    藍桐が大人しくなったのを確認し、无諦は万年筆のキャップを開け、眠気に覆われそうだった脳髄を回しはじめる。しょせん深夜に走り書く恋文のような出来になるだろうとかいうことは脇に置いてペンを走らせた。

 細い汽笛の音が、発車を知らせる音色が窓の外の空気にこだましていた。




◎ 月天ステーションへ

 深い、とても深い水の底から水面(みなも)へ顔を出したように僕の意識は醒めた。

 長い間眠っていたような、頭の奥に泥が詰まっているような気だるさが全身の隅々を支配していた。

 薄く開けた目はどことも焦点が合わなくて暗い空間のなかにいくつか灯りがついていることしかわからなかった。けれど、横になった身体の下からごとごとと振動が響くから、ああ鉄道に乗っているのかと、ボンヤリとではあるけれど自分の置かれた状況が脳内で像を結びはじめた。足は靴をはいたままだから、座席で寝ていたのだとわかった。腰掛けに張られた天鵞絨(ビロオド)は海空の色を写し取ったかのような青色をしていた。

 革靴が付いた足の先端が宙に投げ出されていて、揺れに車両の揺れにあわせてぶらぶらと揺れる。遠くで灯油の燃えるにおいがしている。少し肌寒い。

 どうにか上半身を起こしてみようと手をついたけれど、肩も腕もやけに重たく、油の切れたブリキ人形のように動かしづらい。

 二日酔いだったろうか……。あるいは腕もうまく動かせないほど、僕は疲れていたのだろうか。

 そもそも、何処(どこ)を目指して僕はこの列車に乗り込んだのかすら、さっぱり思い出せない。

 ぐらり、と眩暈(めまい)で頭の中が揺らいだ。なめらかな座席の天鵞絨(ビロオド)へと咄嗟についた手のひらもあらぬ向きに滑る。視界が宙返りをする。

「っ、わ!」

 強く目をつぶった。

 けれども、何も起きない。全身をこわばらせて覚悟した衝撃も、いつまでたってもおとずれない。

 おそるおそる、と開けた僕の視界に映ったのは、少し癖のある鳶色の髪と、昏(くら)い赤の瞳。

「大丈夫か?藍桐」

「……………ぇ、」 

 言葉が出てこなかった。

 ありがとう。や、大丈夫。とか、とにかく何かを言おうとしたのに、寝起きで鈍重な頭は何の言の葉をも差し出してはくれなかった。ひゅ、と肺腑に吸いこんだ空気があんまりつめたく清澄で、目の奥がきんと痛んだ。みるみるとまぶたのふちに涙が溜まってしまって、僕を助け起こしてくれた君の面(おも)輪(わ)がますます曇った(眉根がほんとうにわずかに寄っただけなので、君を知らないひとにはほとんど表情の違いはわからないだろう)。

「ごめん、目が、しょぼしょぼしちゃって」

 どうにか絞り出したセリフでもって、差し出された手を取った僕は座席にきちんと座り直すことができた。握った手のひらは少し乾いていて、温かくて、僕はどうしてかそれだけでも目の奥がしんと熱を帯びるのを感じた。

 向かいの席に座る无諦は静かに僕を見つめていた。 西洋のシャツとベストに若葉色の羽織を合わせたいつもの姿。

 昔から不思議なもので、无諦が何かに没頭している時はいくらでも話しかけられるのに、こうして僕が話し出すのを待っているような无諦に相対すると、一瞬言葉に詰まってしまう。なんとなく照れくさくなって、僕はわざと雑なそぶりで顔をこすり涙をぬぐった。

 なんでもない話を切り出すのにも少しだけの勇気が要ったのだ。

 車両の壁にかかったカアテンは赤地に金の刺繍でできていて、暗闇のみを映す窓の脇で大きい劇場の袖幕のように重厚な空気を纏っていた。列車が進むのにあわせてかすかに揺れるそれを見つめながら、僕はおそるおそる口を開いた。

「ええと、この列車はどこまで行くのだっけ。あとどれぐらいかかるんだろうか。」

「どこまでもなにも、至高天までだろう。」

 僕は言葉の意味が飲み込めなくて、まばたきをして无諦の顔を凝視した。

 冗談だ、とその怜悧なまなざしがほどけるのを待っていたのに、无諦にとってはいたって真面目だったようで、うんともすんとも反応できない僕に首をかしげている。 「地上楽園でレテの川の水を飲んだ影響が残っているのか?だが私たちはエウノエの水も確かに飲んだのだし……。第一、あれが消し去るのは悪行(あくぎょう)の記憶のみのはずだが……。」

「ち、地上楽園?无諦、君は『神曲』の話をしているの?」

「ああ。まさしく『神曲』のダンテのように、星々を目指して身ひとつで飛翔できたなら話は早かった。」

 うろたえながら訊き直す僕をよそに、无諦は腕組みをして深くうなずいている。納得しているようだけど僕の理解はまるで追いつかない!

 至高天に地上楽園といえば、ダンテの『神曲』に登場する場所だ。寝起きではあった僕でも、无諦と何度も語りとおしたその作品のことは即座に思い返すことができた。  地上楽園とは、七つの階層を持つ煉獄の頂上のこと。地獄の入り口から旅をともにした師ウェルギリウスと別れたダンテは、楽園で再会した最愛の淑女ベアトリーチェと共に十層から成る天国の果ても果て、至高天へ向けて飛び立つ……。

 だけど、だからやっぱり、これは冗句(じょうく)じゃないか。

 目を白黒させている僕を見て、无諦ははじめてひらりと笑った。

「だが、我々に導きの乙女はいない。ゆえにこうして泥臭くも列車に乗っているというわけだ。」

 无諦は僕と向かい合っていたまなざしを静かに窓へと滑らせる。つられて僕も顔を横に向ける。

 車窓の向こうは暗闇で満たされていた。よくよく目を凝らすと進行方向の反対側がわずかに白んで、丸みを帯びた大きな山の尾根のシルエットを作り出していたので、夜明けが近いということだけわかった。

「まだ暗くて何処なのかわからないよ。む、てい…………」

 抗議のため開けた口が止まり、そのまま閉じなくなった。

 上昇した太陽の光が地平線の下にもあらわれたかと思うと、大きな丸い山と見えたシルエットはいつのまにか大きな円を描いているではないか!

 呆気にとられる間に影はとうとう、太陽の手前で完全な巨大な球体の形を取った。

「藍桐。あれが私たちのいた星だ。」

 僕の考えを先回りするかのように无諦が横で告げた。

「とはいえ私も驚いているが。列車ひとつで天上を目指すなどと……。」

 小さくため息をつく无諦。いやいや、先回りしてもらったはいいが全く理解が追いつかない。僕は思考が迷子になりながらも、開いてるのかわからないとしばしば言われる目を精一杯見開いた。

 ということは何か。あそこの、星空の中に浮かんでる巨大な黒いボールが地球だって?

 『その球体』は太陽からの逆光を受け、自らの縁(ふち)に光の円弧を作り上げていた。宝石店でシャンデリヤの輝きを浴びる白金(プラチナ)の指輪のようにどんどん輝きを増して、銀色の星々を抱くまわりの夜空を白く染めはじめていた。(ああでも、ここでは一日中星が光るのならば『夜空』と形容するのはおかしいのだろうか?)  僕らが乗っている列車はその光景から遠ざかるように走っていて、信じられないことにそれもまた、線路の無い全くの宙の中だった。それなのに視界の端でたしかに車輪は回転していて、時折見えない水晶の破片に触れたように彩虹の火花がまわりで弾けた。

「无諦。ここは……」

 呟くと目の前がふわりと白く曇った。額をくっつけるほどガラス窓に迫っていたようで、思わず身を引いた。まるでおもちゃ屋のショーウインドウにかじりつく子どもで、照れ笑いが出た。

「僕らはこれから、至高天を、ダンテを目指すところなのだねっ?」

 至高天ということは。僕の脳裏に一つの単語が閃いた。紙片だ。何もかもを忘れていた僕だったが、无諦とそんな話をした覚えがあることを、自分で至高天と口にした瞬間に思い出した。

(至高天にあるという紙片を、僕らは手に入れにゆくのだ。)

 思わず体が震えた。无諦は黙って微笑んだ。その微笑みが、僕に全てを物語っていた。

<――まもなく、つきてん、つきてん。〉

 ちょうどそのとき、こだまを幾重にも重ねたような不思議な声をした放送が車内に響き、窓の向こうで遠ざかる地球は夜明けの光を享け、ますます燃えるように輝いていったのだ。


◎プリオシンの宝石

「ツキテン……“月天”?」

 聞き慣れない響きの単語を反芻してみて、それが『神曲』の天国篇に現れる場所のことなのだと僕は気付く。

「そう。煉獄を後にしたダンテが最初に足を踏み入れる第一の星。最も地球に近い宙を巡る天輪。」

 无諦は淡々と呟くと、荷物から薄く円(まる)い板を取り出し、その中心あたりを指で示した。

 夜の闇を切り出したかのような黒曜石の板の中心にはなめらかな半球のトルコ石が嵌め込まれており、その周りを囲む九つの細い同心円と、最も外側の円の上に素晴らしく繊細に描き込まれた白薔薇とが輝いていた。まさしくダンテの描いた宇宙を図面に映しとったものだとわかった。緑青のトルコ石が地球、九つの円と白薔薇とが十の天をそれぞれ模しているのだ。

 最も内側の、地球に近い円が月天で、无諦の指先はこの手前を指し示していた。よく見ると円を上端へ貫くように地球から線が引かれていて、これが列車の経路を示しているようだ。

「僕らがダンテの旅路をなぞっているのならば……、僕が起きたのは地球と月の間、地上を離れて間もない地点だったんだね。」

「地上楽園の駅から列車に乗り込んだとたん寝入るのだから、ある意味すごい胆力だと感心したよ。」

「えへへ……。でも僕、ここまで来るまでのこととか、まだ全然思い出せないんだけどね……。」

 思い出せない、と口にして僕は、先ほどの无諦が『レテの川』云々と呟いていたわけにようやく思い至った。

 レテの川。それは冥界を流れる忘却の川の名。ダンテが語るには、煉獄山の頂上、地上楽園から発するその浄(きよ)き流れは、人の罪の記憶や影響を奪い、洗い流すものだという。

 本来であれば、楽園に流れるもう一つの川、エウノエの水を飲み善行の記憶を蘇らせることでその忘却を払拭することができるはずだというけれど。

「つまり今の僕は、地上楽園の川の水を飲んだ後遺症のような状態、ということなのかな?」

 无諦に確認してみる。おそらく、という頷きが返ってきたのとほぼ同じくして、息を呑む音が車内のあちこちからにわかに沸き立った。

 窓の外を見ると、列車のゆくての真っ直ぐ正面に、金剛石の輝きを集めたような大きな星の球がほとんど目の前まで迫っていた。

「あれが月!?」

「ああ、まさしくダンテの描いた月だ!」

 それからあっと声を上げる間もなく、そのなめらかな白い表面に列車の先頭が呑み込まれていった。二つの物体がぶつかった境界にはどんなわずかな衝撃も亀裂も走ることはなかった。まるで月が永遠に割れぬ真珠であるかのように。水面が二つに割れることなく光線を受け入れるように。

 とたんに、「ハレルヤ、ハレルヤ。」と唱える声が、前からも後ろからも上がった。車室の中の旅人たちはみな立ち上がり、つつましく指を組み合わせてこの奇跡に祈りを捧げていた。彼らの顔は、どの人もまるでガラスか水面を通したかのようにおぼろな輪郭の像だけがぼんやりと揺れていた。月の表面は僕らのいる車両をも横切り、窓の外は柔らかく光り輝くぶ厚い雲が煌々と流れているかのような光景に変わった。

 祈りの声が車内に響くのを聞いて、僕はあんぐりと開いていた口をつむった。

 「神の愛」の存在を信じてはいても、その力の源、宇宙の環を回す神秘のヴェールをどうにかして暴こうとしていたのが僕たちだった。

 けれども。いやだからこそ、彼らの純粋な祈りに水を差したくはなかった。

 无諦はなおも窓の外を見つめて何かを言おうとしていたので、あわててその肩に両手を乗せた。无諦はきょとんとした顔で振り向いたけれど、僕が必死に人差し指を口の前に立ててるのを見て、怪訝な顔をしながらそれに応じてくれた。

 やがて旅人たちがしずかに席に戻り、列車がゆるやかに速度を落としはじめるまで、密航者のように僕たちは息をひそめていた。

 輝く雲から抜け出した窓の外が急速に薄暗くなり、シグナルの緑の灯りや白くぼんやりとした柱がちらっと通り過ぎた。転轍機の少し大きな振動があったかと思うと、がらんとしたプラットフォームに列車が止まるところだった。僕らの車両はちょうど月天の停車場の大きな時計の前に着いた。

 【二十分停車】

 と、時計の下に札が下がっていた。他の乗客は既にみんな降りてしまっていた。

「僕たちも降りてみようか。」

「降りよう。」 

 僕たちは連れ立って人気(ひとけ)の無いプラットフォームに出た。改札に駅員の姿が無いどころか、駅を出た広場にも僕たちより先に降りたはずの人影はどこにもなかった。空はしんとして暗く、石畳の広場の真ん中にガス燈がさびしく灯っていた。

「夜……いや、さっき太陽が見えたから、これから朝になるのかな。」

「どうだろうか。ここは月の裏側かもしれないぞ。先ほど見た月もダンテが想像したものと同様、クレーターの無いつるりとした地表を持つ星だったろう。我々の知る天体や宇宙の知識はおそらくはじめから通用しないのだ。」

 広場から伸びるプラタナスが並んだ街路を无諦はどんどん早足で歩いていく。考え事をしているときの无諦はいつもこんな感じだ。

 毎度追いつくのが大変なのだけど、そんな感覚もなんだか嬉しい。

 僕が記憶を失っているからだろうか、まるでとても昔のことのように懐かしく感じるのだ。

 ほどなく視界が開けて白い海岸に出た。深い藍色の空には(月は当然のことながら)星々も見えず、静かに寄せる波の飛沫が砕けると玻璃のように不思議なきらめきをあげた。

 白い砂浜に時折顔を見せる小石はみんなすきとおっていて、赤や青の鋼玉や橄欖(かんらん)石(せき)やらがそこかしこに埋まっていた。けれどもそれらは琥珀のようにどれも真ん中に黒い澱のようなものが入っていて、ひとつ拾って覗き込んでみると古い面影のように煤けて揺らめいた。

 少し砂浜を進んでみると、作業着を着た男たちが数人、ショベルで砂を掘っていた。

「石があれば手を使って選(よ)り分けろ!面倒がるとすぐ欠けるぞ!」

 近づくと、ひとり監督役のような男が仁王立ちで、三人の作業員たちに指示を出していた。彼はこちらに気付き振り返った。彼を含めた作業員らの相貌もまた、列車の乗客同様おぼろげで、はっきりとはわからなかった。

「君らもここの噂を聞きつけて来たのか。まあいい、石ころ程度の大きさならいくらでも持っていけ。あっちの方は駄目だぞ、一帯を宝石商が買い付けてるんだ。俺たちの雇い主のね。」

 監督役の男が口を開いた。彼が親指で指した先にはいくつか杭が埋められた間にロープが張られてあり、真ん中に『立入禁止』と書かれた札が下がっていた。「宝石商ですか。」と无諦が訊く。

「ああ。こないだ自慢の逸品がなくなっちまったんで、穴を埋めるのに必死なのさ。」

「盗まれたのですか。」

「いや? 展示がてら豪華客船に乗せて海上輸送をしたんだが、事故に遭って船もろとも海の藻屑になったんだ。有名な話だよ。」

「どのような宝石だったのですか。」

「さあな、俺は一度も見たことないがね。べらぼうに高価で、ライムなんとかいう名前がついてたような。」

「そうですか、どうも。」

 无諦は一礼し、質問攻めをやめた。无諦は、傍からは寡黙に見えるけれど興味を持ったものが絡むとかなり多弁になるのだ。

「どうしてこんなに宝石が埋まっているんですか。」と僕も尋ねてみた。

「願いが結晶になってここの海に流れ着くんだ。月天っていうのはそういう場所だ。誓願を叶えられなかった者が行き着く天体。叶わなかった願いが集まる場所だよ。」

「願い? 願いって、いったい誰の?」

 男は、そんなことも知らないのか、と眉をひそめた。

「この世界の、に決まってるだろ。ああ、そこ、石を傷つけるな! 砂が擦れるだけで表面が曇って値が下がるんだ!」

 男は短く言い終えるやいなや、砂を掘る作業員につかつかと歩み寄って鋭く呼びかけた。

「ああ、では僕らはもう失礼します。」

 僕らは会釈をした。男はこちらを一瞥し軽くうなずくと、また忙しそうにあちこち歩きまわりはじめた。

「願いが石になるっていうのはどういうことなんだろう? それと、宝石商が大事にしていた石はどんなものだったんだろうね?」

「私も気になってはいるが、続きは列車に戻って話そう、藍桐。あまり余裕がないぞ。」

「ちょっとだけだって!」

 懐中時計を取り出す无諦の横で、僕はしゃがんで足元に転がる宝石を物色してみる。いいのがあれば旅の記念品だ。

 白い砂に見えたものもよく見るとひとつひとつが細かな水晶で、指でつまむときしきしと音を立てた。なるほど、あの監督役の人が口を酸っぱく言うのもわかる。ようは宝石同士が擦れ、波に砕けることでこの白い砂浜ができているのだ。

 あれこれ見繕ってみて、ふと少し離れたところの黄玉(トパーズ)に似た大ぶりの宝石に手を伸ばそうとしたら、まぶしい光が目を刺した。

「車掌の合図灯だ。」

 无諦の手が肩に置かれた。

 顔を上げて僕らが来た駅の方を見やると、また白い光がするどく瞬いた。くわえてかすかな汽笛が聞こえる。発車するから戻ってこいと、僕らに伝えているのだ。

「うん。あの石を拾って行くよ。」

 僕は答えて、視線を先ほどの方向に戻す。

 が、強い光を見たせいで、いくら目を凝らしてもぼうっと広がる暗闇だけで石が見当たらなかった。

「あれ?」

 見かけたあたりの砂を両手でかき分けてみても虚しい手触りばかりで、それらしき手応えがなかった。

 さらさら、さらさら、という音が砂時計のように僕をむやみに焦らせる。

「ない……ないよ」

 気づかぬうちに僕は跪(ひざまず)くように目を凝らして石を探していた。

 もとは水晶の破片だった砂たちが指や手のひらにちくちく刺さり、少しずつ血が滲んでくる。すごく痛いのに、どうしてか探る手をとめられない。

 ただ一目垣間見ただけなのに、あの輝きが手元に無ければ僕はこの先、とても生きていかれない、とさえ思ってしまった。

 あの美しい輝きは何処へ?

 あの、黄金より尊く、大切な…………。

「どうしよう、あの石がない、イシ、僕の、僕の石(lapis)が……、」

「藍桐?」

 无諦が怪訝そうに声をあげる。

 指を熊手のようにして鋭い砂を押し分けているせいで爪の隙間や指の腹はとっくに血でにじんでいて、濡れたところから砂がくっついて煩わしかった。それでも手を止めることができなかった。

(お願い!)

 祈るように手を伸ばすと、つるりとした表面に指の先が触れた。

「あった!」

「藍桐!」

 手のひらに石を握りしめたつかの間、无諦に腕を掴まれて引っ張り上げられた。そうしてそのまま、ふたりで駅に向かって走った。

 そしてほんとうに、風のほうに走ることができた。息も切れず、脚が疲れることもなかった。もうふたりで世界の果てまでだって走れると、僕は思った。

「はは、ははははは!!」

「何を笑ってるんだ!君のせいで至高天行の列車に置いていかれたらどうする!」

 走りながら笑い出した僕を叱りつける无諦の口の端も上がっている。

 腕を掴まれていたはずなのに、いつのまにか僕らは汗ばむ手と手を繋いできらめく砂浜を、しんとした街路とを駆けていた。

 君となら、二人きりで取り残されたっていいや、なんて言ったらきっともっと怒られるから、僕の口から漏れたのはやっぱり大笑いだった。

 紺青に沈む浜辺に駅のホームから漏れる光が灯台のように僕らを導いていた。


◎ずぶ濡れの青年

 僕と无諦が息をはずませながらあのさびしいがらんとした月天のホームに着くと、先頭車両のそばに黒ずくめの車掌さんがたったひとりで立っていた。

 車掌さんは合図灯を片手に掲げ、ゆっくりと左右に振っていた。カンテラによく似た形のそれからは、近くで見ると驚くほどまばゆい光が放たれていた。砂浜で見た灯台のような光は、きっとあれだったのだろうと僕は思った。

 彼は僕らに気付くと静かに身体をこちらに向けた。

 その人のいでたちは奇妙だった。何しろぜんぜん顔が見えない。目深にかぶった帽子と立てられた黒ずくめの外套の襟のせいでその奥をうかがうことが全くできなかった。

 僕が彼を車掌さんと呼べたのはその帽子がいわゆる制帽と見える特徴的な形状であったからだけで、その他には背丈と体格からしておそらく男性なのだろう、ということしか推測できない。

 そんな車掌さんは合図灯の灯りを弱めると、僕たちにこう言った。

[あなたがたが最後です。]

 耳に入ってきたその音声は、ひどく分厚い壁の向こうから発せられたつぶやきの残響を集音機でむりやり聞き取れる音量に仕立て上げたようにくぐもったもので、声音の特徴を掴むことがまるでできなかった。横の无諦が、僕と同じようにぎょっと身を固くしたのがわかった。

 車掌さんは手元の、おそらく懐中時計を確認して*[8分遅れか。]*とつぶやいた。

「ご、ごめんなさい……。」

 僕は頭を下げながら表情の読めない謎の人物の脇をそろそろと通り抜けた。遅れの原因たる黄石(トパーズ)の重みをポケットの中に感じながら。

*[いえ、あなたがたが原因で遅れたわけではありません。]*と、車掌さんは表情の読めない口調で言った。

「え?」

[進行上に異物があったので。それを取り除くまではどちらにしろ発車できませんでしたので。]

「そうだったんですか……。」

 若干慄きながら僕は相槌を打つ。もともと線路もない宙を走ることができるにもかかわらず異物を気にする必要が果たしてこの列車にあるのか、僕にはさっぱりわからなかった。

「あの、異物というのはいったい。」

 やはり僕と同じことを思っていたらしい无諦が、好奇心にかられて口を挟んだ。

[――――――――。]

 ところが、車掌さんは无諦の問いかけに対してまったく沈黙してしまった。言いづらい内容でも含まれていたのだろうか。

「……もし?」

 怪訝な顔の无諦が首を傾げながら車掌さんの制帽の奥をのぞき込もうとしたとき、車掌さんはぷいと背を向けてしまった。何か触れられたくない事情があるのかもしれない。

「无諦、ほら行こ!」僕がせいいっぱいのこそこそ声で若草色の背中をつついた。无諦は少し肩をすくめ、「手を止めてしまい申し訳ありません」と言い残すとさっさと車両に上がっていった。

 僕も後に続こうと乗降ステップに足を載せた。すると、ぽつりとあの不思議な声が響いた。

[……ここは宙(そら)というより、ある種の海のようなものですので。]

「えっ、…………というと?」

[――――。]

 訊き返すと車掌さんはまたもや黙り込んでしまった。しかし二呼吸ほど間を置いてから、腹を決めたように話し出した。

[……どれほど労力を費やして港を起とうと、どれほど精確に航路を辿ろうと、どれほど熱意を以て岸を目指そうと、突如として海原に現れる氷山の切っ先や嵐の大波からはどうしても逃れられないのが人間というものなのです。それが運命というものなのです。  ですが、その禍(わざわい)を乗り越えることができるのもまた人間の業だけ。私はそのように思うのです。]

 滔々と謎めいた言葉を話す車掌さんの言葉は謎かけのようであり、ひとりごとのようにも聞こえた。

 首をひねりながら返す言葉に迷っていると*[――――申し訳ありません、まもなく発車いたします]*と車掌さんが僕に告げた。僕はあわてて小さく会釈をし、車掌さんの脇を通ってやっと車両に乗り込んだ。

 ふと、ずっと握り込んでいた手のひらに違和感を覚えた。

(あれっ?)

 見ると、指先のすり傷が無くなっている。

 確かさっき、石を探しているときに出血するほど砂をかき分けていたはずなのに。

 思わず立ち止まり、手を開いて眺めてみる。血もでていなければ痛みも無い、いつも通りの自分の手だった。

(おかしいなあ)

 暗かったから血が出ていると思ったのも実際に目で確かめたわけではないけれど。

 訝しみながら僕は乗降口へ足をかけ、再び車両に乗り込んだ。  


 ゆっくりと動き出した車両の手すりをつたいながら元いた座席まで戻ると、向かい合わせのボックスシートにひとりの青年がぽつんと腰かけていた。

 年頃は僕たちと同じぐらいみたいだった。彼は僕たちに気が付きはっとこちらを見上げると、気弱そうに肩を縮めた。

「ごめんなさい。もしかして先に座っていらっしゃいましたか?たまたま見つけた席がここで……」

「ううん!席は座ってもらって大丈夫だよ。でも……」

 もともと片側に2人は座れるボックスシートなのだから、人数が増えても一向にかまわない。しかし問題はそれではなく。

 青年が身にまとっている高級そうな、しかしぼろぼろのコートと手袋は、ぐっしょりと濡れたように黒かった。顔色にもまるで血の気がない。

 スミレのような深い紫と東雲の空を思わせる薄い紫とが一房ごとに違った色で混ざって生えているくせの強い髪もやはり、重く水分を含んだように額にはりついている。瞳は混じりけのない赤色で、ひどく疲れたように時折まぶたがそれを覆い隠している。耳飾りや首飾りなど派手な装飾は身につけていないにもかかわらず、それらの外見によって彼はひどく目立って見えた。

「毛布が必要だろう。車掌を探してくる。」

「そんなお気遣いは……、」

 さすがというべきか、医学を学ぶ身である无諦が鋭く声をかけた。青年が引き止める間もなく、すたすたと先頭車両の方向へ歩いていった。

「うん!ありがとう无諦!」

 无諦の後ろ姿に声をかけつつ、僕は青年の向かいに腰を下ろして笑いかけた。

「平気?横になっても大丈夫だよ!」

「いえ、俺のことは本当にご心配なく。」

 青年は眉を下げ、はにかむように笑った。

 紫の髪と、真っ赤な瞳。

 独特ないでたちにもかかわらず、第一印象で僕が感じたのは奇妙な既視感だった。

 何処かで会ったことがあるのだろうか?でも、日本にはまずいない外見ではあると思うけれど……。

 彼の真っ白な顔色はどう見ても大丈夫には見えなかったが、彼がそう言うなら、と好奇心がふつふつと湧いていた脳みそを雑談モードに切り替えた。

「なら、キミの話を聞かせてほしいな。キミはどこから来たの?」

「ああ。俺は、乗っていた船が氷山にぶつかって沈んだんです。」

 何でもないことのように青年が答え、あれこれ話題のタネを考えていた僕の脳内はまたたく間に漂白されてしまった。

 青年は辛い記憶を呼び起こすようでもなく、どこか遠くもの思いにふけるような目をして一部始終を語りはじめた。

「船はアメリカから大西洋(パシフィック)を渡るべく出立しまして。その夜は、月のあかりはどこかぼんやりあったけど霧が非常に深かったんです。  船はいっぺんに傾いて沈みかけた。ボートは左舷のほう半分は、もうだめになっていた。とても、みんなは乗りきらないんです。俺は、近くの人といっしょになって、お年寄りやご婦人、小さな子どもを右舷のボートへやった。」

 青年は一瞬、引き攣(つ)ったような息継ぎをした。

「けどやっぱり、女性や子どもの全員も乗せきれなくて。すすり泣きだとか、お祈りだとかがあちこち聞こえるんだけど、ぼけっと立ち尽くしてるだけの人がいたりして。目をかたく閉じて、抱き合ったまま身じろぎもしなかった男女もいたっけ。離れていくボートも見送ったけれど、この霧でいつ助けが来るかもわからなくて。そのうち俺はこう思った。いや、もしかしたら、ボートの外で見送ることにした誰かがいつしか口走り、それを俺が勝手に自分の考えと思い込んでいるだけかもしれないけど。とにかく俺の中にこういう考えが浮かんだんです。『このまま神の御許(みもと)へみんなで行くことが、神が定めたことなのかもしれない』と。  それでも俺は、神に背く罪は俺だけで背負ってでも、なるべく助けてあげたいと思っていた。生き延びたいと思っていた。  だから俺は、船が完全にひっくり返って自分が海に落ちてからも、側で浮かぶものにつかまりながら、気力が潰えそうになっている人をはげましたり、沈まないように頑張って足をばたつかせてた。けど、どれくらい経ったころかな、でっかい大波が3,4回来まして、俺や他の客もみんな飲み込まれて冷たい海の底に沈みました。それでおしまい。」

 僕は口を挟むどころか顔を上げて彼の真っ赤な瞳を見ることもできなくなっていた。青年は僕の顔色をうかがったのか最後にこう言い添えた。

「俺がわかったのはひとつだけ。つまりどんな悲劇が起ころうと、あるいはどんな喜劇が起ころうとも、それらは等しく神の愛で、神のおぼしめしだったんだ。」

 話を終えると、車両のどこかから小さな祈りの声が聞こえ、はじめて青年は悲しげな顔をした。自分の経緯(いきさつ)にはまるで関心がなく、彼の話に心を痛めた誰かをいたわっているようなずれがあった。

 神の愛。謎めいたその単語はどうしても僕らの旅について回るのか。

 世界を回すと言われるその力が原因であれば、悲劇でも涙を飲んで堪えるしかないというのだろうか。

「そんなのが神の愛だなんて嘘だよ。」

 知らず、そんな言葉を口走っていた。

 青年は何も答えなかった。

「そんなのが、たとえ神様が何を考えていたとしても、そんなことがあっていいはずないじゃないか。どうして罪のない人々が、大勢傷つかなければいけないんだろう。どうしたら……」

 僕は喉が詰まって最後まで言い切ることができなかった。

(ああ、僕は、彼のために、みんなのために、いったい何ができるのだろうか。薬学を学んだところで、結局……。)

「あなたは、そういう風に怒ってくれるんですね。ありがとう。」

 黙っていた青年がつぶやいた。その表情は風のない夜に降る雪のように静かで、それで僕ははっとわれに返った。

「う、ううん。僕のほうこそごめんなさい。ぶしつけに訊いて、いろいろまくしたててしまって。どうも悪い癖みたいなんだ。」

「気にしてませんって。」

 青年は微笑んで窓の外を眺めた。ごとごとと列車は星の海を進んでいて、どこまででも光がきらめいているように見えていたけれど、青年はそれらの光とは違う何かを窓の向こうに見つけようとしているように見えた。それを見ている僕も、この場には何かが欠けているような落ち着かない気持ちになった。

「じゃあ、あなたは?」

「へっ?」

「あなたはどこから、どうやってこの列車に乗ったのですか?」

 窓の外を向いたまま、ガラスに反射した青年の顔がこちらに話しかけていた。僕は頭をかいた。

「それが、まるっきり忘れちゃってて……。」

「ありゃ。そうなんですか?」

「地上楽園の駅で地図を受け取ったと聞いたから、列車に乗ったのはたぶんそこからかなあと……」

「あ、いえいえ、乗った駅ではなく、列車に乗る前は何をされてたのかな、と。もちろん話せる範囲、話したい範囲で構わないですけど。」

 僕はもう幾度目かもわからないまま面食らう。その部分は全然考えていなかった。

 えーーーーっと、などと伸ばし棒のところを息の続く限り伸ばして時間を稼ぎながら、あいまいな風景を必死でたどる。列車に乗る前も僕と无諦は一緒にいたはずだ。なぜなら出会ってからの僕らはほとんどずっと一緒だったから。

 すると、ひとつの像が脳裏に浮かんだ。夜の列車の中で、无諦が、僕と向かい合って座っている。

「……たしか、僕らはふたりで一緒に列車に乗っていたんだ。今と同じように。ふたりで何処かに向かっていたんだ。」

「それはいいですね。」青年は振り返って笑った。「うらやましいです。一緒に旅ができる気の置けない友人がいるっていうのは。」

「何言ってるの!こうして会えたんだからキミも友達の一人だよ!」

 青年はおどろいたように首をかしげた。

「俺も?いいんですか?」

「当たり前だよ!あ!僕は宇津木藍桐!で、さっき毛布を取りに行った人が原田无諦(むてい)ね!両方日本人なんだ。キミの名前は?」

 遅くなってしまった自己紹介とともに僕は右手を差し出した。青年の口元がゆっくりとほころぶ。

「俺はテ、」

 言いかけた彼の顔には、とたんに眉に深い皺が刻まれた。「え?、なんで、俺は、」

 ぐしゃり、と前髪をかき上げるように黒い革手袋に覆われた手を顔に押し付け、苦悶の息を漏らす。

「違う、違う違う俺は、俺の名前は、そうじゃない、」

 そして、ぷつりと意識の糸が切れたように青年の身体が傾き、どさり、と床に倒れ伏した。  


  「大丈夫か!?」

 无諦の声が頭上から降ってきたのはこのすぐ後、僕が小刻みに震える右手で、握手をするはずだった右手で、青年の呼吸や脈拍を確かめていたときだった。目立った異常はなく、ただ身体が冷えているだけだと思われたけれど、報告をする僕の声はほとんど涙声だった。

「ごめん、僕が無理矢理にでも彼を休ませておけば、」

「違う。私が離れたのが判断ミスだった。離れるにしても先に彼を診ておくべきだった。」

 あくまで冷静な无諦と、青年が倒れた物音を聞いて駆けつけた車掌さんとで青年は先頭の車掌室まで運ばれていった。彼を抱えられるほど身丈もない僕は結局一度も使い物にならなかった。だらりと垂れ下がる彼の白い手を見て僕はまた涙ぐんだ。

[あなたがたはもう、席にお戻りなさい。]  医術の心得があると訴えた僕らの目の前で車掌さんはあっさりとこう言い放ち、車掌室の扉を閉ざした。これ以上、列車の進行を妨げさせない、といわんばかりの所作だった。

 僕たちは黙って席まで戻った。頭の中がぐらぐら、ふわふわしたまま、僕はちょうどさっきまで青年が座っていた席にすわった。あれだけコートが濡れていたのに、座席には水しみ一つ残っていなかった。    ゆっくりと深呼吸を一度した。

「僕はいつも思うよ。いくら薬学を勉強しても、どうにもできない事故や事件を見聞きするたび、どう向き合ったらいいのかなって」

 无諦はわずかに閉じていたまぶたを開いて、窓の外に顔を向けた。ちょうど白い影のような渡り鳥が幾万も、音もなく空を駆けていった。

「人の手の及ばぬ災いは、在る。自分の手の届く範囲の、やれることをやるしかないだろう。」

「万人が癒しを享ける権利だって、確かに在るんだ。」

 僕は両手を、これ以上震えないように握りしめる。

「だから、人知を超えた力でどんな病気や怪我でも治癒できたならいいのにって、ときどき考えてしまうんだ。おかしいよね。」

「……おかしくはないさ。この仕事を目指した者がそのように思うことは。」

 无諦は静かに言った。

「少なくとも私は、誰かにおかしいなどと言わせたくない。」

「……!」

 僕は、その言葉に脳の芯が酩酊するような痺れを覚えた。

 そう、それこそが僕が求めていた言葉。

「そうだよね……!僕らは一緒に……」

 そう言って僕は无諦の手を握り、




●断章、あるいは列車の遅れのお知らせ

「私たちはオデュッセウスだったのかもしれない。」

 いつか、君がそうつぶやいた。

 オデュッセウス?あのギリシャ神話で有名な? と問うと、君は、そうだけどそうじゃない、と答えた。

 君はこう言った。一般的に知られているギリシャ神話のオデュッセウスとは、トロイア戦争の優れた将にして、故郷への帰還の旅の道すがら多くの怪物と渡り合った一流の冒険者だ。しかし、ダンテが『神曲』で描いたオデュッセウスは、それらとは全く違う姿なのだと。

 『神曲』のオデュッセウスの物語はこうだ、と君は語りはじめた。

 トロイアの戦禍から辛くも逃れたオデュッセウスとその部下たちは、長く困難な帰郷の船旅の途中で突如船の舳先(へさき)をあらぬ方向へ――陸影の無い遥か西へと向けた。

 当時、地中海の西の果てであるジブラルタル海峡は当時そのまま世界の果てだと考えられていた。

 海峡には、神が造らせたという『この先へ進んではいけない』と示す巨大な柱が建てられているとも、海水が滝となって奈落へ落ちていくとも言われていた時代に、オデュッセウスのその行いは狂気の沙汰としか映らなかった。

 故郷では愛する家族が彼の帰りを待ち続けているのに何故?

 『神曲』地獄篇の第二十六歌、ダンテが出会ったオデュッセウスは、自らの罪業をこう語った。

『私はなりたかった。人の善悪、世界の事物の何たるかを知り尽くす者に――。』

 オデュッセウスはその優れた智謀を以て部下たちを巧みに説き伏せ、長い旅路を共にした従順な彼らの心に前人未踏の海原への憧れを植え付けた。ほどなくして彼らの熱狂が甲板を満たし、船の舵が西に取られた。すると船はたちまち水面を離れ、櫂を背にして宙を舞った。船までもが己の役割を忘れ、狂い飛んだのだ。

 空を舞う船に乗った彼らはジブラルタルを超え、ただひたすらに西へ西へと進み続けた。『この先へ進んではいけない』と、神が示した標(しるべ)の柱は彼らの意識をかすめもしなかったのだろう。人も、島の一つも見えない海原を幾日もかけて進んだ。

 そしてオデュッセウスは煉獄の山を――頂に地上楽園を持つその大地を、ついに視界にとらえた。

 地上楽園こそはアダムとイヴが追放されて以来、生きた人間が踏み入れることの叶わなかった地。神の意志に頼まずして、神の愛を得ずして、人が自らの力のみで天上の入り口にたどり着いた瞬間だった。

 だが、その行いは神の怒りに触れた。

 突如沸き起こった竜巻が、オデュッセウスたちを乗せた船を海ごと巻き込んで三度転がし、四度目に船を海に沈め、全員が命を落とした。無謀な旅はこうして、あっけなく幕を下ろした。

 オデュッセウスの罪状とはすなわち、好奇心。神の導き(ルビ:愛)より外れた真理の探求を行ったがゆえに神に裁かれた。

 ゆえに、『神曲』のオデュッセウスは地獄にいる。

 神が定めた『世界の果て』を超えた罪により、永遠の炎にその身を焼かれ続けている……。

 君は語り終えると口を閉ざした。

 僕は、とっさに君の手を両手で包んで言った。

 どうしたの?君らしくないよ。

 恐れているの?

 僕らふたりなら大丈夫。

 ふたりなら、何も怖くないよ。

 ……とうとう最後まで君は黙ったままだった。

 世界の果てを超えようとした罪。

 その罰がいつか僕らを裁くのだとして、それが何になるというのだろう。それが僕と君の歩みを止める理由になるとでも?

 君と一緒なら、僕は、何があろうと、どんな苦難があろうとへっちゃらだったのに。

 だけど……………。

 …………………。

 だから……、君は一人で行ってしまったの?

〈――お待たせしました。まもなく運転を再開いたします――。〉




◎万人を癒す力

  「…………、え?」

 ふと、意識に奇妙な間隙があった。

 まるで、話題にしようと思っていたことを口を開く寸前で忘れてしまったときのような、数瞬前の記憶にぽっかり空白が開けたような感覚。

 普通に地に足を付けていたはずなのに、急に床が抜けて宙に放り出されたかのような。

「どうかしたか?」

 向かいの无諦に声をかけられて、戸惑いが声に出ていたことを知った。

「……あ、えーと。あはは、考えごとをしてたけど何を考えてたのか忘れちゃって。うたた寝してたのかも」

 伏せた視線の先ではなぜか、己と无諦の手がしっかりと握手をしていた。僕はいつから両の手がこうなっていたのかもわからず、あわてて指を広げ无諦にあいまいに笑いかけた。

 无諦はわずかに首をかしげながら言った。

「車掌から、運行に遅れがあるというアナウンスが。その直後に電灯が一瞬消えて、車内が暗くなった。ほんの少し、瞬き(まばたき)と同時なら気がつかない程度の短さだったが」

 なんと、そんなことがあったなんて。

 アナウンスも停電も、正直全く気がつかなかった。

「そうなんだ!じゃあやっぱり、僕寝てたみたい!」

「……本当に大丈夫か?疲れか、あるいはやはり記憶が抜け落ちた後遺症なのか……」

「もう、そんなに心配しなくてもへいきだって!」

 なおも不安そうな无諦の肩にぽんと両手を乗せ笑った僕は、思い出したかのように言葉を連ねて話題を逸らすことにした。

「そういえば!ねえ、あのさっきの紫髪の人、君はなんだか見覚えがなかったかい。」

「……いいや、私はないな。あんなに特徴的な風体なら、一度会えば忘れないだろう。」

「うーん、そうだよね。なんだか僕は、どこかで会ったような気がしたんだよね。」

「君の知人ではあるが私は会ったことのない人物であるとか。君はいま記憶がないのだから、そうであれば辻褄が合う。」

「かもねえ。」

 腕組みをして考えこんでいたそんなとき。

 がつっ。

 何かがぶつかったようなにぶい音とかすかな衝撃。その後にさざ波のようなどよめきが、後方の車両から響いた。

 はっとして顔を上げると、同じように驚いたような无諦と目があった。

 病棟で実習をしたことのある僕たちの経験上、こうした音はたいてい誰かが突然倒れたサインということがわかっていた。

 僕らはうなずきあうとほとんど同時に立ち上がった。同じ過ちはしたくないというのが、言葉を交わさなくても共有された僕らの気持ちだったように思えた。


「はなれません。」 

 どよめきは、ひとつ後ろの客車にいたひとりの少年を中心にして起こっていた。

 正確には、少年が抱いていたものから、だったけれど。

「はなしません。」

 上等そうなシャツに膝小僧の出たズボンを着たその少年は、腕の中に傷ついた一羽の鳩を抱えていた。

 鳩は眠るように眼を閉じているが、羽のあたりのシルエットが奇妙にゆがんでいた。血で染まった真白い胴体が弱々しい呼吸に合わせてゆるやかに膨らんでいた。

「窓ガラスにぶつかったんだ。この子が急いで窓を開けたすき間に飛び込んできた。」

 いきなりよその車両からやってきた僕らに親切にも事情を教えてくれたのは、少年の傍らで膝をついている青年だった。首元から膝まで丈のある黒い外套をまとい、両耳には長い銀のピアスを身につけている。後ろになでつけたプラチナブロンドの髪とエメラルドグリーンの切れ長の瞳を持つ相貌はゲルマン系の人に思えた。

(、あれ、)

 違和感と既視感。それが、ふたりの姿を目の当たりにしたとき感じたものだった。

 相反する感覚。自分の目の前に彼らが並んでいることにどうもちぐはぐした感じがあるのに、彼らの姿にはそれぞれにこみあげる懐かしさがあったのだ。

 白金の髪の青年は長身を器用にかがめ少年に話しかける。

「どうだ?このままだと騒ぎを聞きつけてどんどん人が集まってくる。とりあえず車掌を呼んで相談してみないか?」

「いやです。わたしません。」

 少年は肩を怒らせ、鳩を隠すようにそっぽを向いた。

 周りを見回してみたが、黒衣の青年以外の人々は皆おぼろな相貌で遠巻きにざわめきを上げるのみだった。

 少年は、口調だけは敬語でも振る舞いは頑固な子どもそのものだった。ウェーブのかかった暗い色の髪が、うつむいた顔に影を落としている。

 そんな光景を見た僕はうんと声を張り上げて会話に参加することにした。

「きみ!安心して!!この人はお医者さんなんだ!その鳥さんの傷もぱぱっと治しちゃうよ~!!」

 と後ろの无諦を高らかに紹介した。

 数拍、沈黙が場を駆け抜ける。

 最初に動いたのは小さな少年だった。

「はとも、なおせますか?」じろり、と顔を上げる少年。

「……診れるよね?」こそり、と振り向く僕。

「……応急手当くらいなら……。」そろり、と視線を逸らす无諦。

「…………。」ちらり、とやや呆れた視線をこちらに向けてくる青年。

 少年は警戒のまなざしをやめない。

 うーんちょっと失敗したかもだけど……。

 いや大丈夫だ、頑張れ藍桐。ここで引いたら医療従事者の名折れだぞ!

「えーとえーと、実は僕も薬屋さん……の卵で!!!」

「くすりや、さん……?」

 少年の柔らかな頬にこもっていた力みがはじめて抜けた。

「そうそう!!」

「じゃあ、はとをなおせるくすり、ありますか。」

「…………、薬は……」

 僕は大きく息を吸い込んだ。

「ない!!!」

 この列車に乗っていた時から、僕は手ぶらだった。

 ――――――――。

 二度目に場を支配した沈黙。それは完璧に完全な、絶対なる静寂だった。

 やってしまった。これは完全にやってしまった。

 とにかく軽率に発言しがちなのがお前の悪い癖なのだと、今まで生きてきて何度言われたことか。

 斜め後ろに控える无諦の、どうすんだこれ、という物言わぬ視線が痛い。

「……………。」

 少年の顔はぽかんとしたものから、おおまじめを通り越して張りつめたものにじわじわと変わっていった。

 眇めた瞳の縁にこぼれる寸前の雫が震えている。

 それを見てはっとした。この子は小さな生命に対して真剣なのだ。それは医学薬学を志す者が、険しい道の途中でしばしば取りこぼしてしまうこともある想いだった。  その想いに報いたい。報いたかったのに。また僕は、何も。

 ぷっ。

 突然割り込まれた吹き出すような息は、白金の髪の青年が漏らしたものだった。

 訳がわからないまま見やると、わるいわるい、と彼が手を振る。

「いやな、お前たちふたりの不安げな顔がそっくりなもんだからつい……」僕と少年の顔を見比べてくっくっと笑っている。

「えっ、そう……だったのかな?」と僕は頭を掻いた。少年も全く意外なように目をぱちくりさせている。

 青年はすまない、ともう一度詫びの言葉を入れてから、ふたたび上背をかがめて少年の肩をぽんと叩いた。

「俺からも頼む、医者の方の彼に診せるだけ診せてもらえないか?それから彼らが信用に値するかどうか、施術させるかどうかの最終的な判断はきみがするといい。……どうだろうか?」

 最後の問のときだけ青年はちらりと无諦の顔を見た。无諦は黙ってうなずいた。

 少年はなおも逡巡していたが、目の前に差し出された无諦の両の掌を穴が空くほど見つめたすえ、「おねがいします。」と言って、か細く震える命をそこに乗せた。

「ありがとう。」と无諦が答えた。その短いやりとりに束ねられた意味はとても重く、たくさんあることを僕は知っていた。


 とはいえ、慣れない診察対象に、无諦の手つきはおっかなびっくりと慎重の狭間を行き来していた。

「……とりあえず安静が必要だ。そして右翼が折れているのは間違いないだろうな。」

 小鳥の、見知らぬ人の手に預けられてもばたつきもしない様子からはまずその可能性が思い当たる。无諦の傍らで見ていて僕もそんな風に思った。

「なおりますか。」少年が問うた。

「……まずは添え木のようなもので応急処置が必要だ。それと包帯と消毒……。」

 明言を避ける无諦の言葉に再び少年の表情が暗くなる。

 今度の僕はほとんど無意識に少年の手を取っていた。

「无諦がいれば大丈夫!きみはどうか落ち着いて!ほら!これなーんだ!手を出して!レモン味だよ!」

 と言って、ポケットから例の黄色い石を取り出し少年の小さい手に包ませる。

 白金の青年はまだ懲りないのか、という目でこちらを見た。残念ながら僕は落ち込んでも割と早めに立ち直るしついでに諦めが悪い性格なのだった。僕はとっておきの笑みを浮かべる。

「なーんて、実はただの綺麗な石でした!口に入れて飲みこまないでね!……って、あれ?」

 キラリ、と石がひとりでに光ったような気がして、僕は首対する无諦のを傾げ、天井のランプが射す灯りを訝しんだ。すると、

「うわ!?」

 ばさばさ、という羽音の直後に少し裏返った无諦の声が僕の横から響いた。見ると、无諦に抱かれていたあの鳩がもがくように暴れていた。

 それも、両翼をきれいに伸ばして。

「どうしたの!?」

 ぱっ、と石から手を離した少年が駆け寄ると、白い小鳥は器用に羽ばたきその腕の中に飛び移った。受け止めた少年は小さい手のひらにあふれんばかりの慈しみをこめて背中を撫ぜた。

 羽には赤黒い血跡が残っているものの、骨格の歪みは嘘のように消え去り、なめらかな流線型をしたそのシルエットを少年は確かめるように何度もなぞった。

「うそ……。」

 僕はあっけに取られたままその光景を見つめるしかできなかった。

「もうだいじょうぶなんだね。なら……いってらっしゃい。」

 少年は両手を開け放たれた窓の外へと伸ばした。白き鳩は身震いをするように何度か両翼を羽ばたかせたと思うと、惜しむ暇も与えないかのようにあっという間に飛び去っていった。

 立つ鳥後を濁さずとはよく言ったものだった。

「あの、なおしてくださって、ありがとうございました。」

「いや私は何も……本当に、何もしていない。」

 ぺこりと頭を下げに来た无諦は顔に困惑の色を残しながらもそう答えた。本当に、のところに嘘偽りのない強調が込められていた。

 それを知ってか知らずか、少年はとあっさりと別れの挨拶を切り出した。

「じゃあ、ぼくはいきます。」

「あれ、もともとこの車両の席じゃなかったんだ?」僕は意外に思い訊ねてみた。

「いえ、ここにすわっていたのですが、ぼくがとりをかかえていたらかぞくはみんなあっちにいったんです。」と、少年は後方の車両を指差した。「おとうさま、おかあさま、あにといもうとが。」

「ええ!?君を置いて行っちゃったの!?薄情な人たちだなあ!!」

「…………。」少年の顔がうつむく。僕の発言はどうやら何かしらの家庭の微妙な関係に踏み込んでしまったようだった。藍桐の阿呆、これで三度目だぞ!!

「と、とにかくそれは確かにはやく行かなきゃだね!うん!!!こちらこそどうもありがとう!!きっと鳩さんも君がいてくれて喜んでたさ!!」 

「……。」

「?」

 細い肩をぽんと叩いて見送ろうとしたところ、幼子は僕の顔を見つめ、ふいに眉をひそめた。まるで。

 まるで彼のほうも僕の顔に何かの違和感を抱いているような。

「っ、」

 再び視神経の奥で何かが揺らぐ。その正体を掴みかける寸前、少年はもう一度お辞儀をして隣の車両へと駆けていってしまった。

「ああ……もう行ったのか……」

 生気の抜けたような声が背後から聞こえて振り向く。

 一連の出来事に最も呆然としていたのは白金の青年のようだった。

 というか、彼を置いて行ってしまった以上、少年とこの黒衣の青年とは全くの他人だったらしい。この人は厳しい顔つきに見えてとても面倒見が良いのだと僕は感じた。

 彼は白い翼が星空の彼方で点に変わり、やがて見えなくなるまで見送った後、ようやく僕らのほうを向いた。

「…………、お前たちの手品だったのか?」

 言っている彼が一番自分のセリフを信じていない顔つきだった。翼の形が変わるほど傷を負った鳥を、彼は側で見守っていたのだから。

「ありえない。あれは本当に折れていたはずだ。」

 无諦も同じく患者(クランケ)の回復に当惑していた。「羽だけじゃない、ぶつかった衝撃で相当弱っていたはずなのに突然飛べるほどの体力が戻ったのも妙だ。どういうことだ?」

「手品じゃない……。」

 僕は手の中の黄色い石を見つめた。なめらかで、変わらない光を発している。

「魔法……なのかも。」

 ぼそり、と僕はつぶやく。

「えっ?」

「ちょっと待て……まさかその石が治したとでも言いたいのか?」

 全く意表を突かれたという顔をする无諦と、不思議と察しのいい白金の青年がふたりして僕の掌の中をのぞき込む。

 質屋にでも持ち込めばそこそこ値がつきそうな、けれど宝石店に並べるには少し不格好な、黄玉(トパーズ)に似た輝石。

「自分でも馬鹿なこと言ってると思うよ……。」

 よりにもよって薬学専攻なのに、石をかざしただけで傷が治るなんて妄言など。

「だけど、僕の指にも擦り傷があったのがいつのまにか治ってたんだ。この石を握っていた指が。」

「藍桐……。」无諦は医者見習いであれば当然の反応として、答えを返しあぐねている。「それは、にわかには信じられないが……。」

「なるほどな。」

 白金の青年はうなずいた後、少し困ったような申し訳ないような顔を見せた。「では俺もこのあたりでお暇させてもらおうか。」

「!」……さすがに引かれたよね。

「ううん、急に変なこと言ってごめん。ありがとう。」

「いや?」

 長身の青年は首をかしげた。

「その石の力で、うっかりピアスの穴が塞がってしまったら困るな、と思って。」

 と、耳に下げた細長い銀の装飾具を爪でカチンと鳴らして破顔したのだった。

「向こうに腰痛に悩んでる婆さんがいたんだ。世間話でもしてみたらどうだ?」


 そこからは本当にあっという間だった。

 石を持った僕がお婆さんの腰の具合を少し看ただけでたちまち腰痛が治ってしまったのを皮切りに、うわさを聞き付けた列車の客が次々と僕たちの前に現れたのだ。    そして、その誰もが抱えていた傷や病を、僕は癒やすことができた。

 他の人や无諦が石を握るだけでは起こらない摩訶不思議な力ではあったけれど、理由を探るよりもその力に僕は魅了された。

 无諦はさいしょ集まった人の病状を訊く問診をしていたけれど、だんだんそれもあまり意味がないことに気付き今ではほとんどただの話し相手になっているみたいだった。    太陽天の駅のあたりでは修道士の衰えた眼を澄ました。

 火星天の駅で乗り込んできた軍人の古傷を癒やした。

 木星天の駅ではどこかの国のとてもえらい人を治療する機会にも恵まれた。

 僕はただひたすら、治し続けた。    ふと、わっと声が上がったので顔を上げ、窓の外を見た。

 宙に浮く、巨大な白い薔薇。

 荒唐無稽に思えるけれど、そうとしかいいようがない光景だった。

「……至高天だ」无諦が、呆然としたようにつぶやいた。

「……あれが……?」

「ああ、神の御許にて祝福された人々が座をなす円陣、ダンテはそれを白き薔薇に例えた……」

 无諦は窓へ手を伸ばし、闇に縫い止められたその一輪を乗せるかのごとく手のひらを上に向けた。

(……あれ、)

 そんな无諦を見て、僕は一緒に喜びたかったのだけれど。どうしてか心には靄があった。

(疲れが出たのかも。)

 あそこが僕らの旅の終着点。

 たくさんの人を癒やし、救わんと目指した僕らが至るべき場所。

 そのはずだ、そのはずだろう?无諦?

 ねえ、

「无諦、君の物語はまだ、」




●断章、あるいは障害物のため一時停車のお知らせ

 そうだ、僕は治し続けた!

 来る日も来る日も薬を作り、人々の病を、疵(きず)を癒やし続けた!

 いつしか人は、僕を錬金術師と呼ぶようになった!

 薬師(くすし)の大望だ、医学の悲願だ!

 それが、君と僕の望んでいたことのはずなのに。

 それなのに、どうして君はそれを否定する!?

 ああああ、また便箋に皺が!駄目だ駄目だ!!また書き直しだ!!

 こんな文言では、僕の思いは伝わらないだろう!!

 君のような美しく明晰な文は綴れなくとも、君と僕との間にのみ通じ合う言の葉というものがあったはずだ!

 どうして、僕たちは離れなければならない!?

 どうして、僕は君の舞台から降りなければならない!?

 ああ、どうか、どうか!

 君の物語を、君の舞台を、もう一度……!

〈――お待たせしました。まもなく運転を再開いたします――。〉

◎舟より墜ちる者

 あれ。

 また、電灯が一瞬落ちた、のかな。

 暗い場所から急に灯りのある部屋に連れ出されたかのような眩暈がよぎる。

 列車が古い造りだからなのか。

「……はい、あなたはもう大丈夫!」

 初老の男性の肩を叩いた。 

 原動天の駅あたりでようやく人が落ち着いた。

 もう至高天は目の前だ。

 无諦によると一時(いっとき)原因不明の障害で列車が止まっていたらしいけれど、普通の停留所なのか運転見合わせなのか、僕はろくに気づけもしないほどの忙しさだった。

 原動天は天使がいる場所。というか天使しかいない。人はひとりもいない。月天や火星天のように実在の天体に紐付けすらされていないからそこには地面すらもない、なにもない場所。と、さっき无諦が話していたのを聞いた。

「休んだらどうだ?ずっと治療し続きじゃないか。」

 无諦がまた尋ねてきたので、僕はかぶりを振る。

「至高天に行くというのに……藍桐ばかり疲弊してどうするんだ。」

「だからこそだよ!」

「……?」

「至高天に着くまで、頑張ってより多くの人を治さなくちゃ。それが僕に与えられた力なんだもの。いや、いいや!…より多くなんてだめだ…全ての人を癒やせなければ、君の描いた物語は…」

「藍桐?少し思い詰めすぎだ。」

 无諦がこちらへ手を伸ばす。  違うだろう、君は。君はそんなことしないだろう?  ねえ、君はどうして。

「どうして、君が僕を止めるの!?」

「っ、え?」无諦は虚を突かれたように目を見開いた。手も宙に浮かんだまま静止している。

「君は……、っ、ううん……ごめん……」

 だめだ。僕は頭を振って立ち上がった。无諦に当たるなんて、最悪だ。

 もっと集中しなければ。全ての人を癒やすために。

 そんな僕の脳裏によぎったのは、僕たちが救えなかった、あの紫髪の青年の姿だった。

「そうだ、僕行かなきゃ。  今なら彼を治せるはずだから。」

「藍桐!」

 无諦の声を振り切るように、僕は車両を出て連結部に足を乗せた。   


 先頭の車掌室まで駆けていくと、あの黒衣の車掌さんがその扉の前に立っていた。

「どいてください!」

[ここは通せません。]

「車掌さん!僕はあの人の具合を治せます!」

[治せるかどうかは関係ありません。ここは通せません。席にお戻りください。]

 僕の訴えにも、車掌さんはにべも無く扉の前をふさぎ続けた。  しかし、僕にも持って生まれた武器があった。

「ねえ聞いて!!僕だよ藍桐だよ!!さっき倒れてしまったきみ!!見せたいものがあるんだ!!!」

 大音声でもって、僕は扉の向こうに呼びかけた。

 車掌さんの怒りには、とにかく彼を治してから謝り倒そうと思っていた。    けれど。

[やはり、そうなってしまうのか。]

[だが布石は打ってある。たとえ氷山が現れても、至高天へ連れて行くための道筋を。]

 車掌さんは淡々と、そうつぶやいた。

「え?」    そんなとき、静かに扉が開き、車掌さんの後ろに紫紺の髪が現われた。彼の顔色はいまだ蒼白かった。

「いったいどうしたんですか?」

「ああ!立ち上がれるようになったのだね!きみ!よかった!」

「あ、あなたはさっきの……ごめんなさい、急に倒れてしまって……」

「あのね、僕この石で病気を治せるんだ!」

 と僕は握り込んでいた黄石を彼に掲げて見せた。   「………それ、は、」

 青年の白い顔から表情が消えた。

「あ、驚くのも無理はないよね。いきなりごめんね、なんたって荒唐無稽だもの。でも本当なんだ。拾った石なのだけれどね。不思議なことだけど、僕がさわるといろいろな病気や傷が直せるんだ。ひょっとするとこれを使えば、きみの凍えも、ううん、事故に遭った他の人ももしかしたら、ああ、きっとそうだ、」

 僕は疲れている患者にやることではないとうっすら申し訳なく思いながらも、饒舌に話すことをやめられない。  でもこれはいい知らせなのだ。

「もしかしたら命を落とした人だって、」

「お前は」

 返ってきたのは冷たい、刺すような声だった。

「、え?」

 僕の言葉を遮ったのは、他でもない青年だった。

「いいや、『お前たち』は、 」ゆっくりと、青年は言った。

「何処へ行こうというんだ、罪人のくせに。至高天を目指すダンテ気取りで、それどころかつまらない好奇心で全てをめちゃくちゃにする醜い"オデュッセウス"のくせに!」

 青年の語気が荒立ってゆく。

「罪人……!?」

 青年は言葉を発しながら、うつむき、身を震わせる。だらり、と重く垂れた前髪が煩わしくなったのか、黒手袋で乱暴に後ろになでつけた。

 そして、怒気に満ちた真っ赤な瞳をこちらに向け、一歩踏み出した。

「どうしたの……、キミは……、」

 血のような眼差しに射抜かれた僕は、声をあげようにも口の中がやたらに渇くことに気付く。

 なぜ、彼の口から急にオデュッセウスという単語が出てきたのだろう。

 そしてなぜそれが僕らのことだというのだろう?

「オデュッセウス……、ひょっとして『神曲』のオデュッセウスだというのか?僕らが?」

 それは神曲『地獄篇』で語られる名前。好奇心が乗じて世界の果てを目指さんとし、神の怒りに触れたと語られる永遠の旅人。

 その身体は、地獄の業火の中で永遠に焼かれ続けているのだと……。

「でもこうして僕らは至高天に向かっている、その場所はすぐ目の前に迫っているじゃないか!」

「ああああああああうるさいうるさいもういいお前と会話しても無駄だったそうだった!あの時だってそうだった!どうせ何も覚えちゃいないし罪の自覚も無いんだろ?!お前達をぶっ殺したあとで今度こそ死んでやるよ望み薄だけどさあああ!!」

[おやめください!]  車掌さんが紫髪の青年の肩を掴んで制止するが、青年は気にもとめずに振り払う。すると、車掌さんはくるりと踵を返し、開いたままのドアから車掌室に駆けこんでいった。すぐに列車が減速しはじめ、身体が慣性のなごりでがくんと大きく揺れた。電灯のランプも大きく揺れて、車内の後方からいくつか驚きの声があがるのが耳に入ってくる。

 そのまま停車するのかと思いきや、ぐらん、ぐらんといつまでも床が、不安定に傾いて、揺れている。

 にもかかわらず青年はこちらへ歩みを止めることはない。

「キミは……何を言ってるの?僕とキミとはさっき初対面だったろう?」

「お前……ッ!いよいよ耄碌がきわまったのかッ!!ならせめて俺に気を留めるな話しかけるなッ!!昔みたいに話しかけるなッ!!

 ぐらあ。青年の言葉に脳みその中までもが揺らぐ。

 やっぱり、前に会ったことがあるのだろうか?僕の持たない記憶の中で、僕は彼を怒らせたのだろうか?无諦の話をいまさら思い出して、たどたどしく言葉を繋げる。

「ご、ごめん。なにか気に障ったのなら謝るよ。ただ、今の僕は記憶があやふやで……。君と前に会った覚えもその、なくて……」

「ああそうだろうよ見てればわかるよ!何しろ俺もそうだ!お前のくだらないトラウマのせいで、今の今まで忘れていた俺自身のことを思い出させられている!」

「それって、どういう、」

 いつの間にか車両の手すりを思い切り掴んでいた。列車の揺れだけじゃない。僕の手はおおげさなくらい、ぶるぶると震えている。

「ああ、そうだ!」と、青年は僕の訊き返しも全く無視して何かを思いついたように笑いだした。「確か日本は火葬文化なんだろ?ああそれはいい最高だ、お前の本当の(傍点)身体だってじきに焼かれる運命だろうよ、オデュッセウスさん!」

 え?

 今、彼はなんて言った?

 ぐらん、ぐらん、と眩暈がひどくて、まともに考えがまとまらない。手すりを支えにして床に膝をつく。

 いま揺れているのは僕の三半規管のなか?この列車?

 それともこの宇宙(せかい)?

 ばたん、とドアの音がした。ぼんやり視線を上げると、車掌室から戻って来た車掌さんがほとんど立ち塞がるように僕らの間に割って入っていた。こちらを向いた制帽の奥から声が響く。

[もういい!これ以上彼の話を聞くな!ここから離れなさい!] 「邪魔だっ!」

 青年が乱暴な手つきで、車掌さんの肩を押しのけるようにして横に突き飛ばした。

 するとバタリとあまりに軽い音を立て、車掌さんは悲鳴もあげず床に倒れた。ガシャガシャと、外套の中から飛び出した車掌さんの身につけていた時計や合図灯がむなしい音を立てて床に落ちる。

「車掌さんっ!!」

 叫びながら、ほとんど四つん這いで近寄った僕は息を吞んだ。

 そこに車掌さんは「いなかった」。

 黒革の外套の中身はまったくのがらんどうだったのだ。列車がめちゃめちゃに揺れるのに合わせてズルズルと外套が床を滑るのを僕は口をぽかんと開けて見ていることしかできなかった。

 硬直する僕をよそに、空っぽを一瞥した青年が乾いた笑いをあげる。

「は。っははは、さっきから口を挟んでくるから何かと思ったら、ただのハリボテじゃないか。顔も見えない声もはっきりしない、妙な"なり"だから気になっていたけど、単なる虚仮威しだったとはね。なあランギリ、こんなもので俺を従わせられるとでも?」

 僕はキッと青年を睨む。

「従わせるって何!?僕と車掌さんは無関係じゃないか!僕に怒ってるなら、他の人に乱暴しないでくれよ!!」

「無関係じゃない。」

 青年は即答した。ぞっとするほど酷薄な響きがこもっていた。

「誰も無関係じゃない。この場所で、お前と関係のない事物など一つも存在しない。」

 こつ、こつ。一歩、また一歩と青年がこちらに近づく。

「ここはお前の舞台。全てを忘れ、身の尽きるまで踊るためにお前自身が作りあげた劇場だろ?」

 こつ、こつ。

 黒いブーツが近づくごとに頭が真っ白になり、意識ごとちかちかと明滅する。

「なに、それ、」

「走馬灯って、知ってますか?」

 青年は一変してボックスシートで話していたときのような口調と微笑みを顔に張り付けた。

 彼はそのまま歌うように言葉を紡ぐ。

「走馬灯、死に際に次々と過去の記憶が見えるという光景はすなわち、その人の人生の再演。けれど、主役その人が台本の筋書きをまるっと忘れていたがために、一度きりのソレは滑稽な即興劇に成り下がってしまった。それはなんて無意味で、くだらない舞台……。」

 青年の顔は瞬時に無表情に切り替わる。

「さっき、俺に名前を訊いただろ?最期に答えてやってもいいかなと思ってたけど、やっぱりやめた。俺の名前なんか思い出さないでくれ。頼むからそのまま死んでくれよ。  人々を救うなんて嘘っぱち。どうだっていいのさ、お前は。この偽善者が」

 こつ、こつ、こつ。

 足音は、ふと気づくと僕の後ろからも響いていた。

 それは僕の横を通り過ぎ、僕の前方まで来て止まった。

 无諦が、そこに立っていた。

 青年は口端をつり上げ、顔をくしゃくしゃにして笑った。

 どくん、と僕の鼓動がひときわ大きく脈打つ。

「とめ、なきゃ。あ、」

 ぐらあああ。

 二人が相対する構図。それを網膜が映した瞬間、脳髄が震蕩した。

 身体が動かない。足が一歩も前に進まない。

 だってこの床が、世界そのものが眩暈を起こして、動揺しているのだ。一歩だって前に正しく足を動かせるわけがない。

 空間がわななき、星々が慄いている。光が、音が、震えが、五感の全てが自分から遠ざかってゆく。

 无諦が、とても小さく見える。

 僕から遠ざかってゆく。

「だめ、だ。だめだだめだむてい、やめて、いけない、それはだめなんだ、」

 手を伸ばしたいのに。

 きみがこんなにも、遠い。

 たとえどんな深い海に沈んで雷(いかずち)の鳴る天を眺めたとしても、たったいま、この瞬間の僕と君より遠く隔ててはいないだろう。

 寸前、とある風景が閃光になって脳裏によみがえった。

 小さな墓の前で回転する刃を振り上げる、濃い紫と薄い紫の髪をした青年。

 目の前に割って入ってきた影。

 脳内までも虹色に、あるいはそれらがすべて縒り合わされた白へと塗りつぶされていく光景。

 そして最後まで、何もできなかった自分。

 届かない、とどかない。だめなのに、君はどうしてまた。

 叫びたいのに、割れるほどの大声で君を引き止めたいのに僕はどうして。

「いかないで、」

 どうして、ほとんどかすれた声でしか言えないのか。

 すると君は、あれほど遠くにいたのに、微笑んで僕を見た。どうしてか、そのまなざしだけは、はっきりと理解(わか)った。

 そうして微笑んだまま君は、再び青年の方へと、顔を向けた。

 青年は狂気の笑いをあげ、无諦の胸ぐらへ手を伸ばす。

「は、ははははっはは!!そうだ!!!今度こそ、お前らまとめて地獄行きだッ!!!永遠に消えぬ炎でその身を焼かれろ!!!」

「や、め、」

 前後左右もわからない。目の前の光景は歪み傾き、天地がどちらかもわからない。

 それでも壁のあったはずの方角に手を伸ばし、どうにか一歩を踏み出す支えにしようとした。右手をいっぱいに伸ばし、思い切って体重をかける。

 しかし、そこには何もなかった。

 僕の身体は正真正銘に傾いてゆき、そして真逆さまになった。

 そして思いもよらない点はもう一つ。

 無重力で満ちているのかと思ってい列車の外に放り出された僕は、案外普通に落下していた。

(ああ、至高天は、)

 裏返った視界の端に、闇に浮かぶあの白い薔薇を捉えた。けれどそれも一瞬、すぐに僕の方が遠ざかり、見えなくなっていく。

 僕はそのことに安堵を覚えてしまい、それから安堵を覚えた理由に納得してわずかに笑みを浮かべ、目を閉じた。

 当たり前だ。君を失って辿り着く至高天など、僕の世界には存在しないのだから。  








現時点で展示できる部分は以上となります。

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