この身体は生きている、走り出せる
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磯井麗慈の話
2024/6/30 20:40
「ぼくに、ください。」
「……おこさんの、なまえ。」
リビングのソファでファッション雑誌をまくる指をふと止めた。見開きのスニーカー特集が目を惹いた。ちょうど、新しいものが欲しいと思っていたのだ。
(今月の給料と……あと貯金も使って……えーと)
端からざっと紙面を眺めるうちにどんどん表情が険しくなっていくのが自分でもわかった。どれもこれも、値が張りまくっているのだ。
「う~~~~~む」
思わずうなっていると、その場にいた人たちがどんどん背後に集まってきた。
「へェ、スニーカー?いいんじゃねェか?」と上から覗き込んできたのは師匠。「ブランドものは身に着けるだけで気持ちが上がるからいいよ~」とシンクで煙草を吸いながら手をひらひらするセオドアさん。「そうですねぇ。あ、これなんかいいんじゃないですか?」と周りのものより値段の桁が一つ多いプレミアものを指さすツヴァイクさん。
「はは……」
もう夜も更けている。何人かはアルコールが入っているはずだった。自分はまだ飲めない年齢なので、翻弄されるよりない。
「ウォ~~~~!!ヴィクチメージのコペルニクスじゃん!!!」
ひと際強い声と酒気が自分の首の横からにゅっと出てきた。
「実光さん? なんですか?」
「だぁからあ、ヴィクチメージのコペルニクス!これ!!」
火照った指が、並んだ靴のうちひとつを指した。暗赤色に蛍光の紐が映えるがっちりとした形のスニーカーだった。ヴィクチメージがブランド名、コペルニクスはスニーカーの名称らしい。見ると、“伝説のモデル、堂々の復刻!!“という文字が脇に踊っていた。
「昔さ~、給料はたいて買ったんだよな~~!!買うときすっっごく並んでさあ~~~!」
頬がくっつきそうな距離で実光さんは笑った。
少し懐かしそうに、本当に楽しそうに。
「そん時の販売元はもう倒産しちゃったんだけど、また出してくれるんだな~!!」
「おっさんが一番ハシャいじゃってるじゃないですか。みっともない」
鬱陶しくなったのか、ツヴァイクさんが実光さんを雑誌から引っ剥がした。
「まあ、好きに決めたらいいんじゃないですか」
ツヴァイクさんはぽかんとする俺にそう言い残して、そのままずるずると実光さんを部屋まで引きずっていった。
「…………」
俺は紙面を見つめた。
後日、俺の手元には件のスニーカーがあった。
「結局買ったんですね。ナントカの復刻版」
自室まで持ち帰るのがなんとなく待ちきれなくてリビングで包みを解いていると、ツヴァイクさんに声をかけられた。
「そうです。ヴィクチメージの、コペルニクス」
「サネミツに感化されすぎじゃねェか?」 師匠に横槍を入れられる。
「……これが、一番かっこいいと思ったんです」
「へーへー」
師匠は肩をすくめて向こうを向いた。
箱から取り出し、履いてみる。ちょうど、実光さんが部屋から出てきた。
「おっ!!」
実光さんはスニーカーを履いた俺を見、目を丸くして、それからふっと笑った。
「よく似合ってるよ、麗慈」
「…………!ありがとうございます!俺、ちょっとそのへん走ってきます!!」
「お〜、いってらっしゃい」 舞い上がったテンションで玄関まで出た。そこで携帯すら持ってないことに気付いて、恥ずかしくなった。いったん靴を脱ごうと思って靴べらをとって腰を下ろした。
すると、リビングの方から漏れ出た会話が耳まで届いた。
「そうそう、レイジが買ったあの靴ですけど、今、倒産した元の販売会社とライセンス上のトラブルが起きていて再販は絶望的みたいですよ」
「マジで!?」
「マジです」
「権利関係の処理ずさんすぎるだろ~~……」
ツヴァイクさんが淡々と語る話に、実光さんは頭を抱えた。
「じゃ、アレはパチモンになるかもしンねェってことか?」師匠が言った。
「どうですかねえ。まあ現時点では本物ですし? この一件で相当レアになったことは間違いないでしょうね」
「いやいや……」
ハァーッ、と実光さんがため息をついた。
「履いて使ってれば、本物も偽物もないだろうが」
そして思いついたように声のトーンが一段上がった。
「むしろ履き続ければそれは自分の足に馴染んだ一点モノ!もうオンリーワンのマスターピースだろ!」
「……」
「……あー、はいはい」
「もう少し何とか反応してください!?」
俺はその会話を、玄関で黙って聞いていた。
俺は、実光さんの言葉は全て正しいと思った。
こんな風に選んだのは、全て自分自身なのだ。
アスファルトがひび割れ隆起した廊下を駆け抜ける。瓦礫を蹴りつけ、飛び越え、ときに踏み砕く。そして着地する。
ぎゅっ、と常人を超えた力にも耐え、踏ん張りの効く靴底。
俺は心からいい買い物をしたと思っている。
そうだ。俺は、何ひとつ後悔なんてしていない。
先程の通信を思い出す。
「命に代えても、阿藤春樹は必ず貴方の元へ送り届けますから。」
俺がそう言ったとき、スピーカーの向こうで実光さんが息をのんだのがはっきりとわかった。それが最後までこちらに届く手前で、振り切るように通話を切った。通信機を懐にしまう前に、もう足を前に踏み出していた。
俺は選んだ。あの人の息子の名前を貰うことを。
俺は選んだ。あの人の息子と同じ日に自らも生まれたとすることを。
俺は選んだ。あの人が喜ぶようなことをしようと。
俺は選び続けた。何かの影に自らを重ねるように、空いた隙間にはまるように。
それがどれほど重い罪なのか考えもせずに。
実光さんはかつての"麗慈"とお前は全然別で、同じぐらいかけがえのない存在だと言ってくれる。ツヴァイクさんも、師匠も、セオドアさんも同じことを俺に言ってくれる。
何度でも。諭すように。
俺も、きっと実光さんたちの言葉が正しいのだと思う。
俺という存在を肯定してくれる、とてつもなくきれいで、まぶしい言葉だと思う。
だからこそ…………。
その言葉が揺らぐような、「かつてあったものを追い続ける」自分を省みると、どうしていいか、わからなくなるのだ。
“クリーチャー"と呼ばれる異形の怪物をいなしながら、廊下を突っ切る。とにかく時間がない。
阿藤……いや、麻生と名乗ったあの男が勝手に行動を始めた場合、一刻の猶予もない。
「ごめん」、と俺ではないもうひとりの麗慈に向けて、時々心の中で声をかけてみる。
顔も知らない少年。もはや謝る意味も、権利さえも、自分にはないのだろう。
自分はただその影の上に、ちょうど空いたスペースに滑り込んで、勝手に重なっただけ。そうやって、紛らわしい真似をしただけ。
「ッ………!!」
振り切ったはずの、巨大なムカデに似たクリーチャーに足を切りつけられた。それでも走る速度は緩めない。
“磯井麗慈"は足先にぐっと力を入れる。高かったけど、今は血痕と黒い粘液にまみれて見る影もないスニーカーのグリップはそれでも、決して衰えはしないだろうと信じている。
例えそれが復刻版であっても。偽物かもしれなくても。走れさえすれば全部、関係ないんだから。
だって、それこそが、たったひとつの価値なのだ。存在に足る証なのだ。
シャッターで塞がれた地上への出口を飛び蹴りで思いきりぶち破る。とたんに光が視界いっぱいに溢れた。
それがまぶしくて、少しだけ、目の奥がにじんだ。
駆け抜けられる。あの人の事を思えば、きっと最後の最後まで。
了