引力について
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初鳥×セオドア『ぜんぶ嘘になる』再録 短編が4つあるうちの3つめ。
2024/11/2 14:11
1
いったい恋とはどういうものなのだろうか。
愛というものは理解できる。それは神から絶え間なく等しく私たちに注がれているものだ。人が人に向けるものであっても同様に。私が世の全てに抱くものであっても。正しい愛、よき愛は見返りを求めることなく相手のもとへ羽ばたいていく。
愛とは、ひとすじの光のようなものだ。愛が対象に何をもたらすかは重要ではなく、ただ光がそのものに差し込んでいるという状態を幸福と呼ぶのだ。
では恋とはなんだろう。
恋の物語はいつも未熟な少年少女が主役を担う。あるいは成人の男女が愛を燃え上がらせるための燃料としても、恋は語られる。恋はときにあらぬ方向へと人を駆り立てる。幸福の頂から不幸の谷底まで。そこに冷静な思惟が挟まる隙はない。
また愛は世の万物に及ぶけれども、恋はそうではない。恋多き人という表現もあるけれど、その時々で違う者に想いを向けるという意味だろう。自分以外の全てに同時に恋をするということは、おそらくありえないのではないか。
ゆえに私は恋を、やがて安らぎに満ちた愛に至る前段階だと考えた。私は人から生まれながら恋を知らない。神々でさえも恋をするというのに。私は恋を飛ばして愛を知っていることになる。これは不完全な状態なのだろうか。
いったい恋とはどういうものなのだろうか。
愛というものは理解できる。それは神から絶え間なく等しく私たちに注がれているものだ。人が人に向けるものであっても同様に。私が世の全てに抱くものであっても。正しい愛、よき愛は見返りを求めることなく相手のもとへ羽ばたいていく。
愛とは、ひとすじの光のようなものだ。愛が対象に何をもたらすかは重要ではなく、ただ光がそのものに差し込んでいるという状態を幸福と呼ぶのだ。
では恋とはなんだろう。
恋の物語はいつも未熟な少年少女が主役を担う。あるいは成人の男女が愛を燃え上がらせるための燃料としても、恋は語られる。恋はときにあらぬ方向へと人を駆り立てる。幸福の頂から不幸の谷底まで。そこに冷静な思惟が挟まる隙はない。
また愛は世の万物に及ぶけれども、恋はそうではない。恋多き人という表現もあるけれど、その時々で違う者に想いを向けるという意味だろう。自分以外の全てに同時に恋をするということは、おそらくありえないのではないか。
ゆえに私は恋を、やがて安らぎに満ちた愛に至る前段階だと考えた。私は人から生まれながら恋を知らない。神々でさえも恋をするというのに。私は恋を飛ばして愛を知っていることになる。これは不完全な状態なのだろうか。
Ⅰ
かつてとある数学者が、樹から落下するリンゴを見て万有引力を――この世の全てに等しく働く力の存在を――見出したという逸話がある。ひどく有名だから誰もが知っているだろう。
ところが、この話は少々単純化されすぎている。彼が生まれる前に生きていた古代人も中世人も、リンゴ含めこの世のあらゆるものが地面に落ちていくことに気が付かないほどバカではなかったのだから。
ところが、この話は少々単純化されすぎている。彼が生まれる前に生きていた古代人も中世人も、リンゴ含めこの世のあらゆるものが地面に落ちていくことに気が付かないほどバカではなかったのだから。
2
私は恋とは何であるか知りたかった。やがて愛に、救いに至るであろう恋が。
恋愛にまつわる映画や本に触れた後に、その中で疑問に思った点をあれこれとセオドアに質問した時期があった。
セオドアは不思議な存在だった。私とは違い、肉体的な快楽を得んと行動している。それについて良し悪しの判断を下すつもりはない。
けれども私には生理的欲求がなく、そういった衝動がどういったものであるか理解しかねていたのもあり、折にふれ気になった。
「初鳥もそういうのに興味がある年頃なのかあ」
私が尋ねると、あまり本気にしていないような態度でセオドアは笑う。
「どういうタイプが好きなの?それとも、もうお相手がいるの?」
「……もういいよ」
からかわれているのだと感じ、ろくな回答を聞く前に顔を逸らした。セオドアはそんな私を眺めやった後に虚空を見つめ、「はあ、死にたい」と意味もなく漏らす。会話はいつもそこで終わった。
お相手、か。と私は心中でぽつりとこぼした。セオドアのほうこそ、不特定の相手と情を交わしているように見え、まるで本意が見えない。セオドアは恋愛を肉体的なものと精神的なものとに分け、前者のみを扱うものとしているようだった。果たしてそんなことが可能なのかさえ私には見当がつかない。
愛であるならば、全てを等しく愛するという点において私とセオドアは近いもののはずなのに。
私は恋とは何であるか知りたかった。やがて愛に、救いに至るであろう恋が。
恋愛にまつわる映画や本に触れた後に、その中で疑問に思った点をあれこれとセオドアに質問した時期があった。
セオドアは不思議な存在だった。私とは違い、肉体的な快楽を得んと行動している。それについて良し悪しの判断を下すつもりはない。
けれども私には生理的欲求がなく、そういった衝動がどういったものであるか理解しかねていたのもあり、折にふれ気になった。
「初鳥もそういうのに興味がある年頃なのかあ」
私が尋ねると、あまり本気にしていないような態度でセオドアは笑う。
「どういうタイプが好きなの?それとも、もうお相手がいるの?」
「……もういいよ」
からかわれているのだと感じ、ろくな回答を聞く前に顔を逸らした。セオドアはそんな私を眺めやった後に虚空を見つめ、「はあ、死にたい」と意味もなく漏らす。会話はいつもそこで終わった。
お相手、か。と私は心中でぽつりとこぼした。セオドアのほうこそ、不特定の相手と情を交わしているように見え、まるで本意が見えない。セオドアは恋愛を肉体的なものと精神的なものとに分け、前者のみを扱うものとしているようだった。果たしてそんなことが可能なのかさえ私には見当がつかない。
愛であるならば、全てを等しく愛するという点において私とセオドアは近いもののはずなのに。
Ⅱ
では、その数学者はどうして歴史に名を残すことになったのか。彼のしたことは、一言でいえば想像の飛躍だ。彼はリンゴを見て、その背後に宇宙を見た。
彼はその時代では既に理解されていた「物はなんでも地上に引っ張られるという法則」が宇宙全体に拡張できるのではないかと思いついたんだ。そう考えれば、古代から学者の頭を悩ませてきた天体の動き方に説明がつくのではないかとね。これが当時の大発見だった。
それまで複雑きわまりない法則で説明されていた天体の動きは美しい楕円運動へと収斂されていった。太陽は地球を引っ張り、地球は月を引っ張る。そう考えたほうが話が単純で済む。かくして、神秘に満ちていた天の世界にも普遍的な理屈がつくようになっていった。
輝く星ですら、質量を持つ単なる物体のひとつに過ぎないのだとね。
ざっくりとまとめるなら、あらゆる物体が相互に引きあっている、ふたつの物体のうちより重いもののほうにもう片方が引きつけられる、というような最初に言った万有引力の法則に、結局は戻ってきてしまうのだけどね。なりたちとしてはそういう背景があった。
だから、かの数学者の目にはリンゴがひとつの天体、つまり星、に見えていたのかもしれないねえ。
はは。
おっと、失礼。
ふいに機体が轟音とともに寝返りを打った。蒼ざめたパイロットがこちらへ駆けてきた。「ごめんね。俺のせいだから」と短く告げると、彼はすぐにパラシュートを背負い外へ飛び出していった。開け放された扉を合図にして突風が暴れまわる。
「驚いた」
セオドアは賞賛を込めた声音でそう呟いた。同時に頭の中はとある誰かへの冷えきった感情に満ちていた。
リンゴが落ちていくのはただ法則に従うだけのこと。リンゴに為す術はない。また、リンゴに何かを為すつもりもない。
「でも、俺とお前に何かがはじまるとするならば」
はじまるのは今、この瞬間からだ。これでやっと、門の入口に立ったようなものなのだ。俺とお前の間でついに一切の希望が捨てられた、この瞬間から。セオドアは目の前の緞帳(どんちょう)が上がった役者のように腕を広げた。
「俺を殺そうとするものをこそ、俺は愛せるのかもしれないのだから!」
落下する感覚はまるで宙に浮いているかのようだ。大きく傾いたことでちょうど真上を向いた搭乗口から深青色の空が見えた。それはセオドアが今まで見たことのないほどに澄んでいた。
身体は引き寄せられていく。ルシファーの待つ、世界の中心へと。
了
彼はその時代では既に理解されていた「物はなんでも地上に引っ張られるという法則」が宇宙全体に拡張できるのではないかと思いついたんだ。そう考えれば、古代から学者の頭を悩ませてきた天体の動き方に説明がつくのではないかとね。これが当時の大発見だった。
それまで複雑きわまりない法則で説明されていた天体の動きは美しい楕円運動へと収斂されていった。太陽は地球を引っ張り、地球は月を引っ張る。そう考えたほうが話が単純で済む。かくして、神秘に満ちていた天の世界にも普遍的な理屈がつくようになっていった。
輝く星ですら、質量を持つ単なる物体のひとつに過ぎないのだとね。
ざっくりとまとめるなら、あらゆる物体が相互に引きあっている、ふたつの物体のうちより重いもののほうにもう片方が引きつけられる、というような最初に言った万有引力の法則に、結局は戻ってきてしまうのだけどね。なりたちとしてはそういう背景があった。
だから、かの数学者の目にはリンゴがひとつの天体、つまり星、に見えていたのかもしれないねえ。
はは。
おっと、失礼。
3
ある時ふと、私は思い立って、セオドアの顔の前の煙草を持ってる手ごと脇にどかし、空いた唇に自分の唇を合わせてみた。
それはこの間読んだ恋愛小説の真似事だった。セオドアが誰とでも褥を共にするならばあるいは、と頭の隅で思い描いていた可能性を、思いがけず実行に移していた。浅慮だったとは思う。
ついさっきまで煙の出入り口だったそこはやはり苦く、薄い表皮からはほんのりと木のような香りがした。その時私の中では感慨や悦楽めいたものは生まれず、けれどもあと少しこのままでいようか、そうしたら何かが起こるだろうか……という思いが渦巻いていた。そこへ黒い手袋に包まれた手がゆっくりと私の肩を後ろへ押しやった。
「……なに」
囁くような音量で、呼吸音がやけに耳に響く距離で、セオドアが短く問う。その声音はその瞬間の私には意外なほど冷たかった。
「なんでもない」
私は乗り出していた上半身をもとに戻した。それから自分の軽率な行動が彼の心を傷つけたと思い、改めて謝罪をした。
「…すまない、セオドア」
「なにが?」
するとセオドアは何事もなかったように笑みを浮かべた。
「だって、初鳥が特別な人を愛するわけないじゃない。今のだって、ドラマかどこかでキスを見て、試してみたかっただけでしょ?」
「………」
私はセオドアに悟られないように、けれど確かに、セオドアの静かな圧力に息を呑んでいた。
「誰かに突然キスされたら俺、びっくりして死んじゃうかもしれないけど、初鳥だったら平気だよ。初鳥は最初から、特定の誰かを愛することなんてないんだから」
そうだろう?と言い切ると、セオドアは私に背を向けて立ち去った。
それが妙に軽い足取りだったのをどうしてか覚えている。
ある時ふと、私は思い立って、セオドアの顔の前の煙草を持ってる手ごと脇にどかし、空いた唇に自分の唇を合わせてみた。
それはこの間読んだ恋愛小説の真似事だった。セオドアが誰とでも褥を共にするならばあるいは、と頭の隅で思い描いていた可能性を、思いがけず実行に移していた。浅慮だったとは思う。
ついさっきまで煙の出入り口だったそこはやはり苦く、薄い表皮からはほんのりと木のような香りがした。その時私の中では感慨や悦楽めいたものは生まれず、けれどもあと少しこのままでいようか、そうしたら何かが起こるだろうか……という思いが渦巻いていた。そこへ黒い手袋に包まれた手がゆっくりと私の肩を後ろへ押しやった。
「……なに」
囁くような音量で、呼吸音がやけに耳に響く距離で、セオドアが短く問う。その声音はその瞬間の私には意外なほど冷たかった。
「なんでもない」
私は乗り出していた上半身をもとに戻した。それから自分の軽率な行動が彼の心を傷つけたと思い、改めて謝罪をした。
「…すまない、セオドア」
「なにが?」
するとセオドアは何事もなかったように笑みを浮かべた。
「だって、初鳥が特別な人を愛するわけないじゃない。今のだって、ドラマかどこかでキスを見て、試してみたかっただけでしょ?」
「………」
私はセオドアに悟られないように、けれど確かに、セオドアの静かな圧力に息を呑んでいた。
「誰かに突然キスされたら俺、びっくりして死んじゃうかもしれないけど、初鳥だったら平気だよ。初鳥は最初から、特定の誰かを愛することなんてないんだから」
そうだろう?と言い切ると、セオドアは私に背を向けて立ち去った。
それが妙に軽い足取りだったのをどうしてか覚えている。
Ⅲ
時代は少し戻るけど、この万有引力に至るまでの人類の宇宙認識史はちょっと複雑でね。西洋では必ずしも科学的な観点での一本道とはいかなかった。
古代ではプトレマイオスという学者がこの地上を球と捉えていて、なおかつ広大な宇宙の中に地球という天体を位置づける、ということをやっていたんだけれど、中世ではそれはいつのまにか忘れられてしまった。長い内乱による文明の衰退ゆえなのか、はっきりしたことはわからないけどね。その間はなんとも抽象的な図柄の地図が発明されてたりして実におもしろいのだけど、それは話の本筋から外れるので脇に置いておくとして。
長い時間が経ち、中世も終わりにさしかかったころにプトレマイオスの宇宙観は再び発見された。ちょうどその時代に生まれたある詩人は、自分の作品宇宙における地上を球体とした。 その詩人こそダンテ・アリギエーリであり、作品こそ彼の『神曲』に他ならない。
古代ではプトレマイオスという学者がこの地上を球と捉えていて、なおかつ広大な宇宙の中に地球という天体を位置づける、ということをやっていたんだけれど、中世ではそれはいつのまにか忘れられてしまった。長い内乱による文明の衰退ゆえなのか、はっきりしたことはわからないけどね。その間はなんとも抽象的な図柄の地図が発明されてたりして実におもしろいのだけど、それは話の本筋から外れるので脇に置いておくとして。
長い時間が経ち、中世も終わりにさしかかったころにプトレマイオスの宇宙観は再び発見された。ちょうどその時代に生まれたある詩人は、自分の作品宇宙における地上を球体とした。 その詩人こそダンテ・アリギエーリであり、作品こそ彼の『神曲』に他ならない。
4
その後セオドアが特別私を邪険にしたり、距離を取ったりなどという行動は取らなかった。今まで通り、私が唐突に口づけに及んだなんてことは起こらなかったかのように振る舞った。私としては、そんなセオドアはありがたい一方で先の一時についてどこか気にかかり続けた。私は夕食の後に散歩に出かけ、雑木林の中で堂々巡りの思考を何度も広げるようになっていた。
そもそも、考えてみれば変だ。セオドアの相手に、私は含まれない。この間の言を引くならば、私は特定の相手を愛さないから。私も自身にその傾向を持ち合わせないことは断言できる。セオドアもそのはずだ。
ではセオドアは誰かに愛してほしいのか。それも違う。これもまた先日の言動から察するに、どうやら彼は誰かに愛されるのは嫌なのだ。セオドアも特定の相手を愛さず、ゆえに私に対しても特別な感情を抱かない。いや、違う。それならば私は。その条件ならば、私には。
だがあれは、拒絶だったではないか。
既に夜も更けていて、もはやどこにも吐き出すことのできない疑問ばかりが心を埋め尽くしていく。ああ、なぜ。
セオドア。どうして、私では。
空はインクをぶちまけたようにどこまでも黒々と広がっている……。
その後セオドアが特別私を邪険にしたり、距離を取ったりなどという行動は取らなかった。今まで通り、私が唐突に口づけに及んだなんてことは起こらなかったかのように振る舞った。私としては、そんなセオドアはありがたい一方で先の一時についてどこか気にかかり続けた。私は夕食の後に散歩に出かけ、雑木林の中で堂々巡りの思考を何度も広げるようになっていた。
そもそも、考えてみれば変だ。セオドアの相手に、私は含まれない。この間の言を引くならば、私は特定の相手を愛さないから。私も自身にその傾向を持ち合わせないことは断言できる。セオドアもそのはずだ。
ではセオドアは誰かに愛してほしいのか。それも違う。これもまた先日の言動から察するに、どうやら彼は誰かに愛されるのは嫌なのだ。セオドアも特定の相手を愛さず、ゆえに私に対しても特別な感情を抱かない。いや、違う。それならば私は。その条件ならば、私には。
だがあれは、拒絶だったではないか。
既に夜も更けていて、もはやどこにも吐き出すことのできない疑問ばかりが心を埋め尽くしていく。ああ、なぜ。
セオドア。どうして、私では。
空はインクをぶちまけたようにどこまでも黒々と広がっている……。
Ⅳ
『神曲』で最初に巡るのが地獄だというのも有名だね。というか地獄篇が有名すぎて他はほとんど知られていない、というほうが正しいか。
そんな地獄が地下の奥深くに広がっているというのは『神曲』にはじまったことではなく、古くから連綿と続いている観念だ。聖書でいうとゲヘナがその一例かな。イタリアじゃエトナ山の火口を地獄の入口と見立てた信仰が古くからあった。なぜそうなのかは色々考えられるけど、まあ一般的に低い場所というのは暗く、臭く、そして穢れているからね。神や善人のおわす天の対極に位置付けられたと考えても、もちろん差し支えない。ともかくダンテはそういった過去の伝統たちを尊重しつつ、自分の世界観を織り交ぜた宇宙を一冊の本の中に作り上げた。
たとえばルシファー。地獄には最初に神に叛逆し罰せられたルシファーがいるというのはお決まりの言説だけど、具体的に奴[ヤツ]がどこにいるのか、彼は明確に示している。
地獄篇の一番最後、第三十四歌で、ウェルギリウスとダンテは氷の真ん中で動けないルシファーの身体をつたい、自分たちの巡ってきた道のりの反対側へと地獄を抜けていく。ダンテは最初ルシファーの脚のほうへ降りていったつもりだったのに、途中休憩の際、ふとその脚が自分の上方へ伸びているのを見て、あまりにも困惑した。だから敬愛する師に尋ねた、これいったいどういうことなのですか、何故、私たちが来た方が上になっているのですか、と。ウェルギリウスがなんと答えたのか、もうわかるよね。
そう、彼らは知らないうちに地球の重力が収束する一点を通り過ぎていたんだ。すなわちルシファーは最も低い場所である星の真ん中に突っ立っていて、かつ彼こそが引力の中心だったんだ。あっははは、すばらしいと思わないか?
ダンテはイメージを多義的に重ね合わせる天才だった。彼がなぜルシファーの居場所をそう設定したのかも、単純にイメージに沿って考えることができる。重いものならば深く沈む。羽のように軽いものならば天に舞い上がる。
そして思えば現代に生きる俺たちだって、罪を「重さ」で測るだろう?
ダンテはこの世で最も重い罪が何なのか、誰が犯したのかをまだるっこしい説明一切なしで表現しきったんだ。
まったく、俺のほうがブラックホール呼ばわりだなんて、おかしな話だよ。
そんな地獄が地下の奥深くに広がっているというのは『神曲』にはじまったことではなく、古くから連綿と続いている観念だ。聖書でいうとゲヘナがその一例かな。イタリアじゃエトナ山の火口を地獄の入口と見立てた信仰が古くからあった。なぜそうなのかは色々考えられるけど、まあ一般的に低い場所というのは暗く、臭く、そして穢れているからね。神や善人のおわす天の対極に位置付けられたと考えても、もちろん差し支えない。ともかくダンテはそういった過去の伝統たちを尊重しつつ、自分の世界観を織り交ぜた宇宙を一冊の本の中に作り上げた。
たとえばルシファー。地獄には最初に神に叛逆し罰せられたルシファーがいるというのはお決まりの言説だけど、具体的に奴[ヤツ]がどこにいるのか、彼は明確に示している。
地獄篇の一番最後、第三十四歌で、ウェルギリウスとダンテは氷の真ん中で動けないルシファーの身体をつたい、自分たちの巡ってきた道のりの反対側へと地獄を抜けていく。ダンテは最初ルシファーの脚のほうへ降りていったつもりだったのに、途中休憩の際、ふとその脚が自分の上方へ伸びているのを見て、あまりにも困惑した。だから敬愛する師に尋ねた、これいったいどういうことなのですか、何故、私たちが来た方が上になっているのですか、と。ウェルギリウスがなんと答えたのか、もうわかるよね。
そう、彼らは知らないうちに地球の重力が収束する一点を通り過ぎていたんだ。すなわちルシファーは最も低い場所である星の真ん中に突っ立っていて、かつ彼こそが引力の中心だったんだ。あっははは、すばらしいと思わないか?
ダンテはイメージを多義的に重ね合わせる天才だった。彼がなぜルシファーの居場所をそう設定したのかも、単純にイメージに沿って考えることができる。重いものならば深く沈む。羽のように軽いものならば天に舞い上がる。
そして思えば現代に生きる俺たちだって、罪を「重さ」で測るだろう?
ダンテはこの世で最も重い罪が何なのか、誰が犯したのかをまだるっこしい説明一切なしで表現しきったんだ。
まったく、俺のほうがブラックホール呼ばわりだなんて、おかしな話だよ。
5
苛々する。おぞましい生き物が私の腹の中を這いまわっているかのようだ。
セオドアは愛を求めず、特定の者に与えることはない。ゆえに私のことも、愛さない。肉体的享楽に戯れることはある。けれども彼の寝室に私が入ることはない。なぜなら私はその欲を持たず、彼もまた私を、
否、否。そのことは問題ではないのだ。
そもそも、私は神の愛のもとで多くを救うべく生まれた存在だ。私のそばにセオドアがいる以上、彼だって何らかの形で私に救われうる存在であることにきっと変わりはない。どれだけ彼が私を拒絶しようとも、私がセオドアのためになすべきことがあるはずなのだ。私はそれが何なのかわからずに、こうして頭を悩ませているのだ。
セオドアは私に何を求めているのか?いや、それはある意味わかりきっている問いだ。そうではない。その答えでは私のこの鬱積はなぜだか収まらないのだ。問いを変えねばならない。セオドアが私にしてほしいことは?……おそらくは適切な距離を保ちながらの、不干渉。違う、それでもない。彼の目的は?……わからない。きっとこの先、私がそれを正しく理解できる日は来ないだろう。解せないことがわかっている答えに思いを巡らせてもしかたがない。
ではセオドアの望みは何だ?彼が彼の人生において真に願っていることは?
………………。
ああ。
ああ、そうか!そうだった!
思えば彼は、いつだってそれを口にしていたではないか。
ははは、一瞬にして霧が晴れたような心地だ。
さあ、それなら今すぐにでも準備が必要だ。やることはたくさんあるし、どれか一つにでも不備があってはならない。特に事後処理に細心の注意を払わなければ。まずは大まかに、実現可能な方法をいくつか挙げてみようか。
この計画の経過で罪を背負うことは問題ではない。救いはあらゆる事象に先立ち、全ての存在に等しくあればこそなのだから。やはり徒[いたずら]に恋などを追及したところで無益だったのだ。ああ、嬉しい。私の胸中を喰い荒らしていた化け物はもうどこにもいない。心が躍るようだ。曇りなど一つもない。
しかしそれにしても不思議だ。なぜ私は今までこんな単純な解を思いつかなかったのだろう。
苛々する。おぞましい生き物が私の腹の中を這いまわっているかのようだ。
セオドアは愛を求めず、特定の者に与えることはない。ゆえに私のことも、愛さない。肉体的享楽に戯れることはある。けれども彼の寝室に私が入ることはない。なぜなら私はその欲を持たず、彼もまた私を、
否、否。そのことは問題ではないのだ。
そもそも、私は神の愛のもとで多くを救うべく生まれた存在だ。私のそばにセオドアがいる以上、彼だって何らかの形で私に救われうる存在であることにきっと変わりはない。どれだけ彼が私を拒絶しようとも、私がセオドアのためになすべきことがあるはずなのだ。私はそれが何なのかわからずに、こうして頭を悩ませているのだ。
セオドアは私に何を求めているのか?いや、それはある意味わかりきっている問いだ。そうではない。その答えでは私のこの鬱積はなぜだか収まらないのだ。問いを変えねばならない。セオドアが私にしてほしいことは?……おそらくは適切な距離を保ちながらの、不干渉。違う、それでもない。彼の目的は?……わからない。きっとこの先、私がそれを正しく理解できる日は来ないだろう。解せないことがわかっている答えに思いを巡らせてもしかたがない。
ではセオドアの望みは何だ?彼が彼の人生において真に願っていることは?
………………。
ああ。
ああ、そうか!そうだった!
思えば彼は、いつだってそれを口にしていたではないか。
ははは、一瞬にして霧が晴れたような心地だ。
さあ、それなら今すぐにでも準備が必要だ。やることはたくさんあるし、どれか一つにでも不備があってはならない。特に事後処理に細心の注意を払わなければ。まずは大まかに、実現可能な方法をいくつか挙げてみようか。
この計画の経過で罪を背負うことは問題ではない。救いはあらゆる事象に先立ち、全ての存在に等しくあればこそなのだから。やはり徒[いたずら]に恋などを追及したところで無益だったのだ。ああ、嬉しい。私の胸中を喰い荒らしていた化け物はもうどこにもいない。心が躍るようだ。曇りなど一つもない。
しかしそれにしても不思議だ。なぜ私は今までこんな単純な解を思いつかなかったのだろう。
Ⅴ
ああそうだ、あんまり関係ないけどついでだからシェイクスピアの話もしようかな。
シェイクスピアはしばしば劇場を世界に例えるのが好きだって、有名だろ。一番象徴的なのが彼を作家として雇っていた劇場のグローブ座。だけどglobeは「世界」ではなく、正確には「地球」という意味なんだ。 グローブ座は円形をした劇場の真ん中に穴が開いていて、そこで演劇が行われていた。その周りを観客席が高く囲っていた。劇場の設計者も、この構造で地球を現したと考えてもいいと思うのだよね。で、その「地球」での上演記録が最古のものだっていう演劇のひとつに、あの『マクベス』があってさ……
……え?結局何を言いたいのかって?
だから、初鳥創が抱いた疑問に答えてやってるんじゃないか。
愛を光に例えるのなら、お前の"それ"は引力なのだとね。
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シェイクスピアはしばしば劇場を世界に例えるのが好きだって、有名だろ。一番象徴的なのが彼を作家として雇っていた劇場のグローブ座。だけどglobeは「世界」ではなく、正確には「地球」という意味なんだ。 グローブ座は円形をした劇場の真ん中に穴が開いていて、そこで演劇が行われていた。その周りを観客席が高く囲っていた。劇場の設計者も、この構造で地球を現したと考えてもいいと思うのだよね。で、その「地球」での上演記録が最古のものだっていう演劇のひとつに、あの『マクベス』があってさ……
……え?結局何を言いたいのかって?
だから、初鳥創が抱いた疑問に答えてやってるんじゃないか。
愛を光に例えるのなら、お前の"それ"は引力なのだとね。
ふいに機体が轟音とともに寝返りを打った。蒼ざめたパイロットがこちらへ駆けてきた。「ごめんね。俺のせいだから」と短く告げると、彼はすぐにパラシュートを背負い外へ飛び出していった。開け放された扉を合図にして突風が暴れまわる。
「驚いた」
セオドアは賞賛を込めた声音でそう呟いた。同時に頭の中はとある誰かへの冷えきった感情に満ちていた。
リンゴが落ちていくのはただ法則に従うだけのこと。リンゴに為す術はない。また、リンゴに何かを為すつもりもない。
「でも、俺とお前に何かがはじまるとするならば」
はじまるのは今、この瞬間からだ。これでやっと、門の入口に立ったようなものなのだ。俺とお前の間でついに一切の希望が捨てられた、この瞬間から。セオドアは目の前の緞帳(どんちょう)が上がった役者のように腕を広げた。
「俺を殺そうとするものをこそ、俺は愛せるのかもしれないのだから!」
落下する感覚はまるで宙に浮いているかのようだ。大きく傾いたことでちょうど真上を向いた搭乗口から深青色の空が見えた。それはセオドアが今まで見たことのないほどに澄んでいた。
身体は引き寄せられていく。ルシファーの待つ、世界の中心へと。
了