みのたけも こころのたけも
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宇津木徳幸+磯井晴己
2020/8/9 00:00
中庭の頭上は雲が点々と高く浮かぶ晩秋らしい青空だった。ようやく自分の過ごしやすい季節が近づいてきたと、ひそかに胸をなでおろす徳幸はしかし、
「だめですよ晴己君。身体を温めなければ」
と朝の挨拶もそこそこに花壇を覗く少年に声をかけた。少年は徳幸にぺこりと頭を下げたものの、少しけげんな表情をした。
「このパーカー、けっこうあたたかいんです。だから、平気です」
晴己は袖口をきゅっと握って言った。
「パーカーは良くても、その首元ですよ」
中に着ている白いシャツの襟ぐりは誰が見てもわかるぐらいぶかぶかだった。
「このぐらい隠れていれば、私も安心なのですが」徳幸は首をぐるりと覆う自分の司教服の襟をつまんだ。
とはいえ夏には暑くてたまらず、ついこの間まで創へ廃止を申し出ようかとまで悩んだ襟だったため、今こうして平然とした顔で晴己に小言をたれる自分に小さくあきれた。
「ごめんなさい」
パーカーのファスナーを上まで引っ張った晴己ははにかむように小さく顔をそらした。
「新しくもらったばかりの服で、着てみたくて……」
「そこまで怒っていませんよ。大丈夫です」
ふたりは一緒に本棟まで移動して、晴己はそこから検査に向かった。午後に徳幸は棚橋医師から電話を受け取った。晴己の容態は変わらずという話だった。
つまり、彼の限界が遠くはないままだということだった。
徳幸は適当な明るい話題も見つからず、戻った晴己に向かってなんとなしに言った。
「その新しい服はどなたからもらったのですか?」晴己の存在を知る研究員らがちょくちょく彼に物を贈ることはさほどめずらしいことではなかった。
「わかりません」
「わからない?」
「きのう、昼に少し眠って、起きたら枕元に置いてあって……、母さんは『自分じゃない』と言っていたので、きっと所員の誰かがくださったんだと思います」
晴己は袖口と裾を一緒にぎゅっと握る。パーカーの丈はくたびれて見えるほどに余っているが、服は新品だったと彼は言う。
「その方は晴己君のサイズをご存知でないのでは?」
「……わかりません」
遠出の疲れからか言葉少なになった晴己を、徳幸は部屋まで送った。服を贈った主は全く見当もつかなかった。合わない大きさを選ぶ理由もわからない。尋ねられる親しい間柄も余裕も、今の徳幸にはもうなかった。
それから暫く慌ただしい日が続き、そんな引っかかりなどとうに忘れ去っていた日のことだった。晴己のもとに再び衣服が届いたのだという。冬が近かったが、相変わらずぶかぶかな襟ぐりであるのは一目瞭然だった。
「枕元に正しいサイズを書いたメモでも置いたらいかがですか?」
ちょうどサンタクロースにでも頼むように、と徳幸は続けた。今ではほとんど言わないような戯れは、もうこの少年の前のみでしか出てこない。
「はい、でもこれは、たぶん……」
晴己は以前と同じように口ごもった。手は細い身体を抱きしめるようにもう片方の袖を握っている。そのようすを見て、徳幸の脳裏に何かがひらめいた。
その日ようやく空いた時間で徳幸は本棟受付の入館者名簿をめくってみた。名簿には、『磯井実』の文字が昨日の日付とともに記されていた。徳幸の予想は当たっていた。サンタクロースは来ていたのだ。
晴己は、うすうす感じていたのだろうか。けれどもその推測を口にした途端に、現実の父親の態度に打ち砕かれるのを恐れて、何も言わないのかもしれない。
思えば、自分の背が急激に伸びはじめたのも彼ぐらいの年のことだった。それゆえに、成長するのを見越して、あらかじめ一回り大きいサイズの服ばかりが手元にあった。そんな、もうずっと思い出さないでいたことが徳幸の頭をよぎる。
来年誕生日が迎えられるかどうかもわからない少年に、袖の余るぶかぶかの服を贈る。
不安の中で晴己が握りしめているかすかな希望は、彼の父親が贈ったひそかな願いでもあったのだ。
「不器用すぎるんですよね」
めったにこの場所に現れない司教がいきなり口にした大きめのひとり言に、横にいた若い事務員が驚いて手を止めた。徳幸はコートを取りに行くためにさっさと自室に向けて歩き出した。愚かな大人に振り回されるこどものために、防寒具をいくつか調達してこなければならないのだった。
了