Yesterday Once More
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初鳥×セオドア『ぜんぶ嘘になる』再録 短編が4つあるうちの2つめ。
2024/11/2 14:05
⚠️DLC前に書いたものなので現在わかっている公式の設定と異なる部分がある場合があります。ご承知おきください。
「”Lookin’ back on how it was in years gone by…”」
リビングのほうからややかすれた、それでいて調子外れな歌が聞こえる。土曜の朝の浮かれた呑気さをそのまま垂れ流したらこうなるだろう、という声音だった。私は黙って、ベランダの植物にやるホースの水量を増やした。冬が近づく白茶けた地面に水流がビタビタと音を立てる。すると歌がやみ、硬い足音がこちらに近づいてきた。失敗した、と思った。
「なんだ、そこにいたの初鳥」
しぶしぶ振り返るとセオドアが皮肉めいた笑みを浮かべてこちらを見ていた。いつも見る表情のはずなのに、無意味に土をぬかるませてしまった悔しさで、彼はいっそう私を嗤っているように見えた。
「セオドアこそ、人の家で歌ってる暇があるのかい」
「予定は夜だからいいんだよ」
この時のセオドアはどこかの要人に用があるとかで数日間私の実家に滞在していたのだった。私がまだアメリカに住んでいた頃のことだった。
セオドアはこちらに目線を合わせるかのように庭先にしゃがんだ。
「今の、何て曲か気になるだろ?」
「別に」
その気にくわない笑顔から私はとっくに目をそらし、水を流していた蛇口を締めた。なぜかはわからないがセオドアは機嫌が良いようだった。
「まあまあ」
セオドアは笑い顔を崩さずに、私にその歌の名前を告げた。私は耳に流れてきた単語をそのまま日本語で呟いた。
「昨日をもう一度、か」
「うん?まあ、曲名だけ見るとそういう意味か……」 セオドアは変に顔をしかめた(彼は日本語も難なく解した)。以後つらつらと流れる彼の話では、それはあるアメリカのユニットが最近出した曲であって、非常に人気があるらしい。私はのろのろと後片づけをしながら聞き流していた。
私は自分が世の流行にあまり関心を持たないのを、漠然と、人と違う細胞を背負って生まれてきたからだと理由付けていた。だから、普通と違って永く生きるセオドアがそういったものに対して多少なりとも敏感なことがなんだか奇妙に思えた。いずれは自分も、世を渡っていくためにそういった感性を磨く必要があるのだろうか。
そうぼんやりしていたら廊下から電話がけたたましく鳴った。私が庭から上がるより先にセオドアが受話器を取りに向かったので、怒るより先に呆れて棒立ちになってしまった。親しげな受け答えの後、すぐにこちらに戻ってきた。
「海美(うみ)たち、夜まで帰ってこられないってさ」
「そう……」
「とにかく、さっき言ったやつちゃんと聴いてみなよ、いい歌だから」
最後にそう言ってセオドアは自分の荷物の置かれた客室へ立ち去った。小さく手を振りながら。
午後、図書館へ出かけた帰りに通りがかったレコード屋の前で立ち止まった。セオドアが口ずさんでいたのと、同じメロディが店先で流されていた。女性が低く優しい音色で歌っているのを聴くと、なんとなくそのレコードを手に取ってしまった。それだけの話だった。
「お、買ったんだね」
家に帰ると、ソファで煙草を吹かせていたセオドアがにこやかに声を掛けてきた。レコードは鞄に入らず、脇に抱えて歩いていたので易々と見抜かれたのだった。私は不承不承にうなずいた。
「お前のためじゃない」
「わかったって。いいから聴こう聴こう」
そんな声を背中に浴びつつ、私は蓄音機を持ってくるために自分の部屋に向かった。リビングに戻ってくるとセオドアが2人分のコーヒーを用意していたので、私はわざとらしくため息をついて角砂糖の入った瓶を台所の棚から取り出した。セオドアは「好きな飲み物なら俺なんかに淹れられたくないだろう」と肩をすくめた。回りくどい気遣いだなと思った。
セオドアが黒い円盤に針を落とすと、その歌は流れ出した。私たちはふたりでソファに座って聴いた。私はそのあいだ、身じろぎをしたりするのがどこか躊躇われた。セオドアは革張りの背もたれに黒い上半身を預けるでもなく、目を閉じて聴いていた。
「やっぱり、いい歌だ」
リビングに静寂が戻ったあと、セオドアがしみじみと呟いた。
「なにもかも通り過ぎていくのに、自分さえも変わっていってしまうのに、繰り返される歌だけが美しく、何度も響く」
その悲しさを歌った歌なんだと俺は思うよ。そう言うとコーヒーに口をつけた。私はそのとき、自分のカップに注がれた色を見てミルクを忘れたことに気が付いた。ふいにセオドアがまじめな顔をした。
「初鳥。その細胞を持って生きていくのに、忘れちゃいけないことが何か、前に言ったろう」
私は思い当たるものがないわけでもなかったが黙っていた。私の返答がないことを気にするふうでもなく、セオドアは背中を丸めて続けた。
「感情が枯れていくんだ」
セオドアはなにかに苛立つように、祈るように、膝の上で指を組んだ。
「周りと違って、老いることがない。人々も時代もすべてが変わっても、自分だけが、あらゆるものに取り残される。やがて、何を見ても同じ反応の繰り返ししかできないような気がしてくる」
セオドアは独り言のように続けた。
「怒りや憎しみや悲しみが尽きそうになるのは、幸福であるかどうかとは何も関係がない。ただ、心がそうやって暴れるには膨大なエネルギーが必要ってだけだ。だから歳月を経るにつれ、同じ感情のパターンしか出力できなくなっていく。そういう回路に電気を通して、スイッチを指ひとつで切り替えるみたいにね」
私は、彼が最初から隣の私に語りかけてなどいないことがわかった。これは彼の感傷だった。
「だから俺の、『本当の感情』なんてのはとうに死んでいて、怒りも憎しみも悲しみも、全て過去に焼きついた記憶をなぞって、演じてるだけなんじゃないかって。その恐怖が、いつかお前にも、」
セオドアは口を噤んだ。そしてどこか自嘲するような、卑屈な笑みを浮かべた。私が嫌う、いつものセオドアの表情だった。
「いや、どうなのかな、初鳥はさ。だって、俺の、」
私が抗議するより早く、セオドアは立ち上がった。
「ごめんごめん。ちょっと言い過ぎたよ」
私が何を問うても、その後のセオドアはただ笑って手を振った。どこかまぶしいものを見るように、目を細めて。
「ねえ、セオドア。君が言っていたことがようやくわかったよ」
馬鹿げたことだと思いながら誰もいない空間に呼びかける。
私は彼の思想を拒絶する。彼の主張を否定する。友人とも同胞とも離別した。私も地獄に落ちると決めて、この事態を引き受けたのだ。
けれども、私は全てがほころびる前の尊いひとときをリフレインさせる。
もう何処へ足を運ぶこともなく、心のみが無限の過去へ飛翔する。喜びと安らぎが蘇ってくる。そして私はその感情たちを擦り切れるまで思い返す、ただの機械になり果てる。
私は白薔薇の海の底で、無数の管の中心で目を閉じる。あの歌の一節が、頭の中で何度もこだまする。そう、なにもかも輝いていた。
なにもかも、『昨日みたいに感じるよ(It’s yesterday once more)』。
了