可能世界論としてのデジャビュ 裏
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さぼしきSとS+のはなし
2019/5/3 00:00
デジャビュ【déjà vu】 ……一度も経験したことのないことが、いつかどこかですでに経験したことであるかのように感じられること。既視感。
こちらを見下ろすかのようにせり出しているテラスに目をやった。レストランのテーブルが並び、幾人かが笑って食事を摂っている、いかにも平和な光景だった。穏やかな秋の陽が照っていて、そばの花壇で咲き乱れている花々と川の水のにおいが混ざっている。 川のほとりには、 阿藤春樹がひとり立っていた。
春樹の心にくすぶる、半年費やした待ち人への苛立ちは募るばかりだった。散々待たせて、さらに待たせる。事件の諸々の影響は収束しつつあって、もう後に残っていることは、そいつに会うことだけなのだ。他のことは全て、結果が出てしまっている。こちらに何の断りもなくその最後を引き延ばしている人間に、春樹はほとほと痺れを切らしているのだ。
(本当はこっちに来てないんじゃないのか!?)
春樹は時計に目をやった。まだ、来ない。怒りを紛らわせるためにフーッと鋭いため息をついて、再び頭上を見た。開放感のあるレストランでは賑やかに食事をしている人々がいる。なぜ自分は、こんなに最悪な気分でこの穏やかな午後を迎えなければならないのだろう。
(変だな、なんで他人と比べるようなことを)
幸福な人々が悔しいとか羨ましいとかではなかった。自分はこの結果を、この現在を受け入れていた。ここは、自分たちが精一杯尽力してたどり着いた地点なのだから。けれど春樹にとってはこの先を生きることが身を切るようなものであるのも真実だった。
テラスからは見知らぬ誰かの話し声、笑い声がさざめきのように春樹の体に降り注ぐ。春樹はふと、どうしてかあのテラスに自分もいて、誰かと笑ってるのではないかという錯覚を覚えた。
(馬鹿だな。もしもああしていたら、だなんて仮定はなんの意味も持たない)
そうでなければ自分の歩いてきた道と、彼の犠牲は重みを失ってしまう。
(だけど、錯覚の通り自分があそこにいたら、その時は)
そんな幸福な自分を見て悔しいとか羨ましいとかではなくて。
その自分は今の自分の苦しみなど、見向きもしないのだろうということが、ほんの少し、哀しかった。
阿藤春樹という人間は辛い過去なら背負える。辛い未来もきっと耐えられる。けれども 過去でも未来でもない、ついぞ経験すらしていない 辛さなど、いったい誰が顧みるのだろう。
(さあ、もしもの話はもうやめにしよう)
春樹は前を向いた。向こうに三つ編みをした、黒ずくめのコートの男の影が見えた。春樹は歩きだした。神の喜劇に、世界の行き止まりに、幕を引くために。